「天皇と東大」

 「天皇と東大 大日本帝国の生と死(上下)」(立花隆 文藝春秋)やっと読了。「日本という近代国家がどのようにして作られ、それがどのようにして現代日本(戦後日本)につながることになったかを、東大という覗き窓を通して見る(メーキング・オブ・現代日本)と同時に、歴史を知らなすぎる世代に対して、もう少し、現代日本の成り立ちを知っておけよというメッセージをこめて書いた」というのが著者の意図ですが、ぶっちゃけた話、成功作だとは言いがたいと思います。まずは分析があまりにも紋切り型であること。天皇制、大学制度、戦争責任、右翼と左翼、テロ、思想弾圧などなど論点は多岐にわたるのですが、著者独自の鋭い分析や指摘は見受けられません。また歴史に対する考え方の枠組み(パラダイム)を組み替えてくれるような考察もなし。狂信的な天皇崇拝にのめりこんだ右翼・軍人・学者が、それを退ける知的能力に欠けた民衆をひきずり、戦争へと突っ走っていったというのが一つの結論だと思います。概ね同意しますが、歴史とはそれだけで語れるほど単純なものではないでしょう。何故ファナティックな天皇崇拝を人々が信じたのか、あるいは信じたふりをしたのか、信じざるを得なかったのか、もっと精密な分析が必要ですね。彼らに対する一方的な断罪口調も気になります。当時の国際状況や社会・経済状況に関する叙述も不足しています。自由主義的世界経済システムの崩壊と、それに対する対応としてのファシズム・社会主義・ニューディールの登場、その中で日本型ファシズムをどう位置づけるかという考察が、近現代の日本を理解する上で欠かせないものだと思うのですが。また副題にも掲げられている「大日本帝国の…死」と昭和天皇の関係、つまり戦争責任問題へのつっこみも歯切れが悪いですね。著者が「日本の民族としての戦争責任問題は、いまだかたづいていない。日本の首相の靖国参拝問題がいつまでも日中韓の最もセンシティブな問題でありつづけているのも、それが理由だ。」と指摘するとおりだと思います。しかしその核心に当たる昭和天皇の戦争責任を下記の一文でかたづけるのはいかがなものか。
 形式的理由(立憲君主は形式が整った案件なら意に沿わないサインもしなければならない)だけで、「責任なし」論を貫くのはむずかしいような気がする。
 「御前会議」(中公新書1008 何故か絶版)という大江志乃夫氏の優れた先行研究もあるのだし、もう少し認識を深めることが可能な段階に来ていると思います。いまだタブーがあるというのなら、話は別ですが…
 同時に概念の定義をもっと緻密にしてほしいと思います。例えば、右翼、超国家主義、国粋主義、天皇中心主義といった用語が乱れ飛びますが、その違いを十分に説明されていないようです。
 しかし詳細な挿話や証言は、質量ともに凄いですね。その調査能力と熱意には脱帽します。例えば柳原白蓮と駆け落ちした宮崎龍介が滔天の息子で、この事件によって初期の東大新人会の機能が停止してしまった話や、河合栄治郎の事績・人となりや鶴見祐輔(俊輔と和子の父)との交友関係など、知的好奇心をくすぐられるエピソードが満載。惜しむらくはその内容が玉石混交で、何故こんな話を載せる必要があるのかと疑問に思えるものも多々ありました。その結果、相当分厚い本となり、歴史を知らなすぎる世代が手にしづらくなったのではと懸念します。せっかくの初志がもったいない。

 いろいろブツブツ言いましたが、当時の狂信的な雰囲気をきわめてリアルに追体験できたことは収穫です。かなりコンパクトかつスリムになったとはいえ、個人よりも国家を優先すべきだという国家主義が復活している現在、やはり一読に値する本だとは思います。
 それにしても、戦前の日本で、天皇・国家教信者の右翼と、マルクス教信者の左翼の中間に位置すべき、穏健で冷静で合理的な第三の流れというものが育たなかった/育てられなかった、という点が気になります。後者が壊滅状態となり、多くの人々が前者に引き寄せられ、相も変わらず第三の流れが枯渇しているのが、今の日本における思想状況ではないのかな。
 なぜこの国では、思想が信仰になってしまうのでしょうか?
by sabasaba13 | 2006-04-17 06:04 | | Comments(5)
Commented by Pleiades Papa at 2006-04-17 21:13 x
小生、大学入試(6科目時代)で最後まで社会(世界史選択)は30点に届かなかったという徹底的「学校歴史」オンチで、全く素養はありませんが、歴史に無関心なのではありません。近代史への関心はあるけれど、まとめて理解する力がない(笑い)。
以前から気になっていた靖国神社就遊館を先日ようやく見てきましたが、コイズミポチくんが選挙で圧勝するような現代日本を理解する上で大変有益でした。。
天皇が直接に権力を握った硬質な時代より、権力と切断された戦後の天皇制はより柔軟な機能性を獲得し、権力にとっては「葵の印籠」以上の手軽でかつ万能に近い装置になったのでしょう。加えてマスメディアを傘下におさめ、「民主主義」という名の多数決制度を採用すれば、これはもう権力にとって三種の神器そのものです。ヒットラーが喝采しそうな本当に危うい時代を迎えてしまいました。
幅広い、ご読書、参考にさせていただいています。今日は私の方からも一冊推薦です。「国家とはなにか」萱野稔人 以文社 若い著者は哲学出身のようですが「国家」の本質を思索ではなく歴史から眼前に腑分けして見せてくれます。優れた著作と思います。
Commented by sabasaba13 at 2006-04-18 21:03
 こんばんは。私にいたっては、世界史を選択すらしませんでした。一抹の後悔と、変な先入観を植えつけられなかった僥倖を感じています。
 小泉軍曹と石原強制収容所長が選挙で圧勝するような状況については、本当に徹底的に考察と批判をし続けていきたいですね。弱者と少数派と反対派を抑圧するような人物が支持を得るという現実は、自らを強者・多数派と思い込んで安心したいという心理的な背景があるのかもしれませんね。
 戦前の天皇が直接権力を握った画期は、日中戦争(1937~)開戦直後の、大本営条例改正だと思います。それまで政令によって設置されていた大本営が、軍令によって設置されることになり、文官が排斥されてしまいます。その結果、大元帥である天皇のみが最終決定権をもつことになりました。それ以前については、民衆に対しては絶対専制君主としてのイメージをもたせながらも、実際には立憲君主に近い存在だったと考えます。田中義一首相の罷免と、二・二六事件の鎮圧は重要な例外ですけれど。
Commented by sabasaba13 at 2006-04-18 21:04
 戦後の天皇制については、政治的な力よりも、「勝ち組」と「負け組」の対立を緩和する精神的な紐帯、そして日本文化の優越性を担保する存在としての意味合いが大きいと思います。やはり問題点は、重要な問題点を報道しないマス・メディアと、それを許容するわれわれの批判精神の欠如および知的怠慢にあるでしょう。民主主義にかわるシステムを見出せない以上、橋爪大三郎氏曰くこの「おんぼろバス」に乗って、みんなで協力して押したり修理したり運転手を叱咤しながら走るしかないと思います。
 本のご推薦、ありがとうございました。さっそく読んでみます。お返しといってはなんですが「図説世界の歴史 全10巻」(J.M.ロバーツ 創元社)は優れた通史です。今夢中になって読んでいます。
Commented by せいすいえいこ at 2007-12-27 10:50 x
「天皇と東大」で検索して見つけました。「穏健で冷静で合理的な第三の流れ」の一つに、東大西洋史・今井登志喜がいます。著書に、戦後しばらく、東大教養部「史学概論」講義でサブテキストとしてつかわれていた本があります。今井登志喜著『歴史学研究法』東大出版です。この本の紹介用ホームページを作りました。読んでいただけるとありがたいです。http://park.geocities.jp/siryouhihann/index.html
Commented by sabasaba13 at 2007-12-31 13:04
 こんにちは、コメントをありがとうございました。さっそく貴ホームページを拝見いたしましたが、なかなか興味深い内容ですね。機会を見つけてさっそく読んでみたいと思います。
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