「ナマコの眼」

 「ナマコの眼」(鶴見良行 筑摩書房)読了。筆者は、旅を愛した自由奔放なアジア学者で、鶴見和子・俊輔姉弟の従兄弟にあたります。それにしても凄い一族ですね。噂には聞いていた名著なのですが、ようやく読むことができました。人生にはゆとりと暇が必要です。なぜナマコなのか? 著者はラッフルズの『備忘録』から抜書きをして以来、20年間ナマコと人間の関わりを追ってきたそうです。そしてその狙いは? 筆者の言です。
 国家を単位として歴史を記述できるのは、ごく限られた時代と土地にすぎない。それに歴史家たちは英雄に光を当てて記述しているから、歴史は多くのばあい中央の座に坐っている権力者の眼から見た歴史になってしまう。私はこうした発想を中央主義史観と呼んでいる。
 ナマコを借りて人類、ヒト族の歩みを語ろうとするのは、国家史観、中央主義史観への異議申し立てのつもりである。
 国家や植民地宗主国がつくる障壁をやすやすと越えて、ナマコの交易を通して多くの人々がつながってきた数百年の歴史を語ってくれます。登場するのは、南太平洋のカナカ族、チャモロ族、マニラメン、フィジー島民、オーストラリアのアボリジニー、ニューギニアのパプア人、東南アジアのマカッサル人、ブギス人、バジャウ人、スルー島民、中国の越人、漢人、日本列島の漁民、アイヌ人、東北アジアのツングース人、朝鮮人。国家という枠を超えて、無名の人々がさまざまな営みを網の目のように交わしてきた歴史には圧倒され眩暈すら覚えますね。そして筆者の視線は、歴史にとどまらず、食文化、神話、文学にも届いています。さらに自分の足で各地を旅することで、叙述に厚みとふくらみも出てきます。国家依存症に対する絶交の解毒薬であると同時に、知的好奇心をかきたててくれる本です。
 実は一番心に残ったのは、直接ナマコには関係ないのですが、知里真志保の言葉です。こういう素敵な言葉に出会えるのも、読書の大きな楽しみの一つです。以下、引用します。
 アイヌの考えでは、神々はふだん神の国では、人間の部落に背を向けてあちら向きに坐り、男神ならば彫刻に没頭し、女神ならば刺繍に専念していて、人間世界に何事かあっても急にはこちらを振り向かない。そこで人間世界に何か異変のある際には人間の方から叫び声を発して神を振り向かせ、その助けを求める必要があるのである。その際でも男の叫び声(ホコクセ)は太く重々しい唸り声なのでなかなか神の国までは届かない。そこでよくよく急ぎの場合は、男でも、女のように細い声を出して“ホーイ”と叫ぶ。するとアイヌの俚諺にもある通り、女の危急の叫びには如何なる神も振返るのである。
 みんなで叫びませんか。ウォホホーイ、フホホーイ、ウォホホーイ、フホホーイ…
by sabasaba13 | 2006-06-04 07:40 | | Comments(0)
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