テニアン・サイパン編(8):原子爆弾について(06.8)

 そして7月26日、米英中の名で日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言がだされました。つまり7月30日までのわずか四日間のうちに、日本政府がポツダム宣言を受諾しなければ原爆投下です。しかもそのことは日本政府には知らされていません。当時の日本政府と軍部は、陸軍を中心とする主戦派と、昭和天皇の側近を中心とする和平派に分裂していました。前者は、アメリカ軍を本土に上陸させ最後の決戦で打撃を与えて、軍部が責任を問われないような形でのできるだけ有利な講和に持ち込もうと考えます。後者は、軍部を切り捨てて天皇制維持だけを条件に即時講和に持ち込もうと考えます。時間を稼ぐために、和平派の鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言に関しては「ノー・コメント」と発表しようとしますが、主戦派の圧力を受けて「黙殺」と発表します。トルーマンはこれを「拒否」と判断し、原爆投下作戦を続行します。天候が回復した8月6日、テニアン島から発進したB-29エノラ・ゲイは広島に原子爆弾リトル・ボーイを投下します。
 しかし、原爆についてのある程度の知識を持ちながらも、主戦派・和平派ともにポツダム宣言を受諾する動きは起こりません。豊田副武(そえむ)軍令部総長が「アメリカといえどもそう多くウラニウムを持っているわけではないから、原子爆弾の数も自然に制限され、攻撃の続行は間もなく不可能となるだろう」と主張したように、民衆の生命は眼中になかったようです。そして8月8日、ソ連が日本に宣戦布告をし、満州になだれこんできます。ソ連を仲介にしての和平工作はこれで破綻、さらに関東軍を頼みの綱とする本土決戦構想も瓦解、そして何よりも社会主義国ソ連に占領されたら天皇制自体が危機におちいります。天皇制により権力を保持してきた官僚・軍人たちが、最も恐れる事態です。翌8月9日、まるで何が何でもアメリカの力=原子爆弾によって日本は降伏したのだという印象をつくりだそうとするかのように、また原爆の威力をもう一度ソ連に見せつけるかのように、B-29ボックス・カーは長崎に原子爆弾ファット・マンを投下します。
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 主戦派にポツダム宣言の受諾を決意させたのは、やはりソ連の参戦でした。しかし、和平派が「天皇制の維持」(一条件)だけを条件に受諾しようとしたのに対して、主戦派はそれに加えて「武装解除・戦犯処罰は日本側が行ない、占領をしない」(四条件)を要求し、何とかして軍部の責任回避と戦後の存続を実現しようとします。そうしないのであれば戦争を継続すると強硬に主張します、つまり「軍部を救ってくれないのならばみんな道連れにしてやる」ということです。それでは連合国は納得しないと考えた和平派は、主戦派を切り捨てて天皇制を存続させる道を選びました。つまり昭和天皇の決断[=聖断]によって、天皇制の維持のみを条件としたポツダム宣言受諾を決定したのです。こうして8月14日に「天皇制の維持」を条件にポツダム宣言を受諾することを、連合国に通告、さらに翌8月15日に昭和天皇がラジオ放送によって国民に発表しました。[=玉音放送] ここに第二次世界大戦が終結します。

 「原爆投下がなければ戦争が長引き、もっと大勢が死んだ」という、広島・長崎合わせて27万人以上の一般市民が虐殺された歴史的事実を正当化しようとする根強い意見があります。しかし多くの犠牲者が出ると予想される本土上陸作戦をしなくても、日本が降伏する確率はかなり高いものでした。これまで見てきたように、早期終戦・人命救助のためというよりも、戦後世界でアメリカがソ連より優位に立つための戦略として原爆は投下されたと考えざるをえません。イギリスの科学者ブラッケットは「原爆投下は戦後世界の対ソ戦略の一手段として、広島、長崎の一般市民を犠牲に供した冷酷な選択であった」と指摘しています。

 本日の一枚は、原子爆弾が長崎に投下された時の状況です。
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by sabasaba13 | 2006-10-17 06:07 | 海外 | Comments(0)
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