「愛国の作法」

 「愛国の作法」(姜尚中 朝日新書001)読了。小泉軍曹が行った構造改革により切り捨てられた人々の激増と、「愛国」「和風」「日本文化」に癒しを求める動きの活発化とは、どのような関係があるのでしょう? 端的に言うと、自民党の政策によって追い詰められたのに、その支持率が顕著に落ちないのは何故? 同党がなりたてる「愛国」という言葉にとりこまれる人々が増えているのかなという漠然とした予感をもっています。姜尚中氏がこの問題に真っ向から挑んだのが本書、力作です。
 氏の思いは“作法”という言葉によくあらわれています。広辞苑によるとその意味は、1.物事を行う方法 2.起居・動作の正しい法式 3.きまり しきたり 国を愛するという行為を全否定するのではなく、それにはいろいろな方法があり、その中でも真っ当な愛し方をすべきだという主張だと思います。
 なぜ「愛国」に癒しを求める人々が増えているのか、氏はこう分析されています。まず日本の現状は、人間をたがいに結びつけているすべてのものが危機のなかで砕け去り、見捨てられたという意識をもつ人が増えている。同感です、社会や教育における競争原理主義の過熱と蔓延がその背景にあると私は思います。そして愛国心が、その「見捨てられている状態」を組織化する安易な接着剤になっている。なぜか? ネーションこそ、その構成員を平等の名の下に結束させ、しかも「死者たち」と「いまだ生れざる者たち」とを現在において結びつけることで、共同体が備えていた永続性を「想像的に」回復させてくれる。ただしそこにはナルシシズムという危険な病がともなう。「日本人」は文明化され美しく高貴であると考えてうっとりすると同時に、他者への想像力が停止し、他者は野蛮で醜く低俗だというレッテルを安易にはってしまう。その結果、日本や他者を客観的に見る視点が失われ、さらには人類に普遍的な価値を否定して、日本のユニークさを称揚する浅薄な考えが跋扈する。「知性や理性に猜疑の目を向ける保守的な文化自警団」という比喩は秀逸ですね。
 そして国家の本質、戦前と戦後における国体のあり方など、論考は続きますが、小生の能力不足でとても要約できません。いずれにせよ、こうした偏狭な「愛国心」が、今世界や日本が抱える深刻な諸問題を見えなくさせていると思います。それではどうすればよいのか。筆者は「謙虚さと客観性と理性を育てる」必要性を説くとともに、下記のような提言をされています。
 それでは今日、「愛国」とはどんなスタンスを意味しているのでしょうか。やや図式的に言えば、地域=郷土(パトリア)の再生とアジアとの結びつきこそ、「愛国」の目指すべき理想なのではないでしょうか。「愛国」が本来、「パトリア(郷土)」への愛に他ならないとすれば、凄まじい勢いで荒廃の一途を辿りつつある地域の再生こそ、まず「愛国」が取り組むべき課題に違いありません。
 なるほど、もしかしたら政府は愛国心涵養のために敢えて地域を破壊を放置しているのかもしれませんね。具体的な地域再生策については、「維持可能な社会に向かって」(宮本憲一 岩波書店)をご参照ください。夜郎自大で蛸壺のような愛国心を克服するための、地域再生、あらためていろいろな問題にはつながりがあるのだと痛感しました。
 なおジョージ・オーウェルにも同趣旨の発言があります。こういう心に響くような文章表現を身につけるのも戦略的に重要でしょう。長文ですが、引用します。
 私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。しかし第二には-そしてこの方がずっと重要なのだが-自己を一つの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。通常どちらも非常に漠然とした意味で使われているので、どんな定義を下しても必ずどこからか文句が出そうだが、しかし両者ははっきり区別しなければならない。というのは、そこには二つの異なった、むしろ正反対の概念が含まれているからである。私が「愛国心」と言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押しつけようとは思わない、特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得すること、といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なり何なりの単位のために獲得することである。

by sabasaba13 | 2007-01-08 08:34 | | Comments(4)
Commented by knockla at 2007-01-09 15:25
この本、丁度読んでみたかったんです。
引用文から察するに 私などでもなんとか理解できる様に書いてありそうで安心しました。
ただ 今の自民党がどこまで考えて、もっと言えば戦略として政策を打ち立てているのか甚だ疑問ではあります。
この先の顛末まで考え、あえて「わざと」やっているのか 全くもって不明です。
Commented by sabasaba13 at 2007-01-10 20:18
 こんばんは。私も自民党の政策は、知的に練った戦略というよりも、弥縫的な姦計だと思います。普遍的な価値を否定する夜郎自大な愛国心が将来どのような状況を招くのか、本気で考えているとは思えません。確かなのは、そのつけを払わされるのはわたしたちだということですね。
Commented by knockla at 2007-01-11 13:40
以下は凄く破壊的でネガティブな考えかも知れません。

「政治」と「日常」が著しく乖離しているのを 日々感じておりまして
身近な有権者さん達は現状(たとえば会社のシステム)に不満は言うものの
実際には身の回りの出来事まで(この場合は自分の属している会社まで)しか関連づけて考えないんですよ。
選挙にも殆どの人が行っていません。(20〜30代)
そういう現実を見ていますと
一度、どうとでもなったらいいやん、とさえ思う時があるんです。
「そうしないと、貴方たちは気付かないんだろうな、
気付いてからは遅いぞ、ほれみろ」というか。
自民党と結託しているのは 実は一部のにわか愛国者よりも
その辺にいる無関心層だと思います。
無関心層のツケを、我々が払う事になるという感覚がありますね。
Commented by sabasaba13 at 2007-01-13 09:21
 こんにちは。正直に言って、私も時々そう思います。しかしアジア・太平洋戦争というとんでもない事態をきちんと記憶・検証できていないのが現状ですから、恐るべき事態が近い将来に起きても気づかない人が多いのではないでしょうか。
 そして私たちが自暴自棄・無関心になることを最も望んでいるのが政財界諸氏だと思います。敵がもっとも嫌がることをせよ、という闘いの大原則を掲げつづけませんか。牛乳瓶の中に落ちたカエルのように、じたばたと足掻きつづけましょう。微力ですが、拙ブログもその足掻きの一つです。
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