レオン・フライシャー

音楽は生活のちりを流す
               ~アート・ブレイキー~
 先日、銀座の王子ホールにレオン・フライシャーのコンサートを聴きにいってきました。以前拙ブログでも紹介しましたが、ジストニアという病気により右手が完全に麻痺してしまったのですが、35年におよぶ必死のリハビリによって回復したピアニストです。その復帰レコーディングとなった「トゥー・ハンズ」を聴いて感銘を受けたのですが、その彼が来日すると知って矢も盾もたまらず聴きに行った次第です。
 開演前に煉瓦亭でメンチカツを食べようと目論んでいたのですが、仕事がたてこみその時間はとれそうにありません。有楽町駅前でカレーをかきこみ、かろうじて間に合いました。曲目は、J.S.バッハの「羊は安らかに草を喰み (カンタータ第208番より)」、D.ロストンの「メッセージⅠ」、L.カークナーの「左手のために」、ストラヴィンスキーの「イ調のセレナード」、J.S.バッハ/ブラームスの「左手のための“シャコンヌ”」。20分の休憩後、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番(遺作)です。最初の音が鳴り響いた瞬間から、ホールが暖かい音の粒々に包まれます。まるで室温が一、二度上がったかのよう。再び音楽ができることを神に感謝するかのような、そしてそれを決して大言壮語しない滋味あふれる演奏に、時を忘れて聴き惚れてしまいました。この「羊は安らかに草を喰み」は「トゥー・ハンズ」でも取り上げられた曲ですが、本当に美しい曲ですね。終わりが近づくにつれ、千秋真一のように「ああもうすぐ終わりだ、やだな」と思ってしまいました。「左手のための"シャコンヌ"」は、バッハの「シャコンヌ」(無伴奏バイオリンのためのパルティータ第二番より)を、右手を痛めていたクララ・シューマンのために左手だけで弾けるようにブラームスが編曲したものです。月並みな表現ですが、まるで両手で弾いているかのような錯覚を覚える見事な編曲と奏者の技量。
 そして休憩の後、シューベルトのピアノ・ソナタ、死を前に揺れ動く彼の心がひしひしと伝わってきました。絶望、希望、逡巡、救済といった楽想が入り乱れる難しい曲ですね。フライシャーもきっと自分のこれまでの過酷な人生と重ね合わせながら、演奏をしていたことと思います。疲れのためか、右手のミスタッチが時おり見られ、三連符の切れも甘いのですが、それを補ってあまりある表現力。第二楽章では、右手の上に左手を交差させて高いシングル・トーンを繰り返し弾く部分があるのですが、その音の何という美しさ・優しさ。羽毛で心をなでられる気持ち。救いを求めるシューベルトの思いを表しているのかもしれません。帰宅後、ためしにピアノで試してみたのですが、とてもとても繊細にして玄妙なタッチはできません。
 パンフレットに「突然、私の人生で最も大事なことは両手で演奏することではないと気付きました」という彼の言葉が載っていました。何が大事なのだろう? 作曲家の、そして奏者の思いを聴者に伝えることなのでしょう。その思いをたくさんいただいて、幸せな気持ちで帰途につきました。彼の呟きが聴こえてきたような気がします。


聴いてみろ、音楽はええぞ
by sabasaba13 | 2007-01-23 06:06 | 音楽 | Comments(0)
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