「国語教科書の思想」

 「国語教科書の思想」(石原千秋 ちくま新書563)読了。小学校・中学校で使用されている現行の国語教科書からその問題点を読み取り、国語教育の今後に関する提言を行うという内容です。著者の主張は、国語という教科は道徳に近い内容、つまり心を一つに決める奇妙な科目になっているということです。実際の例は本書を読んでいただくとして、一つ例をあげると、動物を擬人化した上での人間と動物の交感を説く教材が大変多いということ。『ごんぎつね』『大造じいさんとガン』『月夜のみみずく』『海の命』といった作品群です。著者はそこから「動物に戻ろう」という隠されたメッセージを読み取ります。以下引用です。
 「動物」は「与えられた環境」をそのまま受け入れ、「批評」しないということだ。文字通り「動物化」することを求める小学校国語教科書のメッセージは、受動的で与えられた環境に対して従順な「人格」を作り上げることに一役買っている可能性が高いのだ。そういう操作されやすい「人格」が誰にとって便利なのかは、改めて言う必要もないだろう。権力者にとってである。
 その上で著者は、国語を二つの科目に分割することを主張しています。まずは「リテラシー」、これは文章・図表からできるだけニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをニュートラルに記述し、その意味を考えて意見表明できる能力を育てる科目です。そして「文学」、作品により道徳を教えるのではなく、異なった読み方が可能であることを学び互いに認め合い、自分の考えを記述できる能力を育てる科目です。乱暴に言ってしまうと、文章を客観的に読む訓練と、個性的に読む訓練をやらせろということですね。特に後者が重要だと考えているようです。以下、引用です。
 国際社会で求められているのは個性なのだ。…もしそれがグローバル・スタンダードであって、これから国際社会で生き延びていくために日本がそのグローバル・スタンダードを受け入れる覚悟を決めるなら、日本の国語教育にも根本的な改革が必要だろう。
 おおむね賛同はします。しかし「グローバル・スタンダード」という言葉をきちんと定義せず無批判に使用し、受け入れる/受け入れないという二者択一的な選択を迫るという語り口は疑問を感じます。考えたかが甘いし固いと思います。あと、他者にだまされないために、文章を論理的に読み取るという能力の育成も喫緊の課題ではないでしょうか。「備えあれば憂いなし」などと言って、戦争を自然災害にずらしていまう小泉元軍曹の言辞に何の疑問も批判もわかなかったという状況は危ないですね。
 面白かったのは、以下の二つの指摘です。まず「わたしたちが出すごみの量はどれくらいだろう」という課題からはじまって、「一人一人ができることをしよう」としめくくる単元です。わたしたちの抱える問題を個人の努力で解決しろというのか、という著者の主張には共感します。これは悪質な「道徳教育」ですね、ごみ問題で責任をもっとも負うべきは企業なのに。「わたしたち」→「一人一人」という言い方には十分気をつけましょう。責任が曖昧になってしまいます。
 もう一つは、2002年に文部科学省が全国の小中学校に配布した「心のノート」という奇妙な冊子についての指摘です。例えばこのような一文がのっています。
 たとえば、やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
 いかがわしい文章ですね。著者も怒りをあらわにし、こう言い換えています。
 たとえば、やるべきことをやらずに他人の義務だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
 うまいっ、座布団二枚!
 もう一つ付け加えるとしたら、急速に文章離れが進んでいる現状では、どうしたら子どもたちが文学・文章・文字を面白がるようになるかも考えるべきでしょうね。そのあたりの著者の考えを、もっと詳しく知りたいな。
by sabasaba13 | 2007-02-02 06:06 | | Comments(0)
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