「戦後の終わり」

 「戦後の終わり」(金子勝 筑摩書房)読了。金子氏の深い学識とそれに立脚する鋭い提言にはいつもいつも敬意を表しております。過去の歴史をふまえ、現状を冷静に分析・批判し、そして具体的な解決案を提示する、言うは易く行うは難き仕事を誠実にされている方だと思います。気長に(とはいってもわれわれに残された時間はそう多くありませんが)彼の著作に挑んでみようと思い立ち、まず手にしたのが本書です。二部仕立てで、前半では小泉政権の分析・経済政策への批判・格差問題・リスクに着いての考察、そして後半は論壇で発表された時評を収録しています。
 まず氏は、戦後という仕組みが終わり壊れたという意味で、今を大きな時代の転換期ととらえます。国際政治においては、潜在的な脅威に対して先制攻撃を仕掛けてよいとし実行したアメリカによって国際的な枠組みが大きく動揺した。国際経済においても、ドルの対抗通貨としてのユーロが登場し、また証券化とグローバル化が進んだ結果過剰なマネーが世界を駆けめぐり、バブルとバブルの崩壊を繰り返す不安定な時代に突入した。これに加えて石油資源の枯渇(ピーク・オイル)という危機も懸念される。こうした転換に対する対応策や将来の見通しを持てない日本の政治と経済は劣化していく。以下、引用します。
 レフェリーなき競争主義が社会を覆い始め、いまや目先の利益のために、問題を先送りして将来のリスクを放置するという状況になっている。社会が溶解を始める―深刻な社会基盤の崩壊に直面していると言ってよいだろう。こうした中で、政治のすることは誰か仮想敵を作り、バッシングすること以外になくなっている。
 あいつぐ企業の不祥事や、小泉元軍曹のワン・フレーズ・ポリティックスなどがよい例ですね。こうした状況に対して著者は年金一元化や財政赤字への対策など、具体的な提言をされておりますが、その真骨頂はセーフティーネット論でしょう。たえず失敗から学んでいく仕組みを社会全体でつくっていくこと、そのために正しい情報が提供されそれいもとづいて公共的に議論ができること。そして予測もできなかった困難や環境の変化に対応するため、社会に多様な意見や価値観があること。価値観が多様であるということは、競争も多様であるということですね。「もし、複数の価値規範と複数の競争が存在していれば、人々は互いに比較できない価値をしているので、不平等を感じない」と氏は述べられています。意見や価値や競争を一元化していこうとする政治家や官僚・財界の動きに徹底的に抗うということだと思います。具体的な状況の中で、そうした思考ができるよう自らを叱咤していきましょう。

 後半の時評も、外交から社会・経済・政治と多岐な内容を含む粒ぞろいのもの。中でもJR西日本福知山線事故に関する評は、長文ですがぜひ引用したいと思います。
 旧国鉄の巨額の債務は解消されたのか。これらの旧国鉄用地売却後も長期負債は増え、結局、一般会計に移されて国民負担となった。つまり民営化の名のもとに、官僚たちによる国の財産の乗っ取り、優良資産の横流しと不良資産の自治体への押しつけ、さらに旧国鉄借金の国民による税負担が生じただけであった。実は、国鉄民営化とそれに続く土地バブルこそが、この社会が狂い始めた起点だったのだ。
 その国鉄民営化の先頭に立ったのがタカ派・市場原理主義者たちであった。まず民営化を進めた国鉄官僚は、葛西敬之、井手正敬、松田昌士の「青年将校」たちであった。彼らは、分割JRで経営トップにつき、国労潰しに走った。葛西はいまや憲法改正の旗振り役だ。井手は、JR西日本の会長になり、「日勤教育」など恐怖体制を作り上げてきた。そして、事故の原因を「国鉄末期の官僚的体質、無責任体質」に帰し、「効率を上げるのは当たり前」と公言し、利益優先の姿勢を反省しようとはしない。
 贅言は要らないでしょう、あの悲惨な事故は起こるべくして起きた。そして真の責任者は反省もせず責任も取っていない。民営化とは、国会の監視から逃れ、公共の財産を私企業が横領し、官僚の天下り先や利権を確保するためのものなのですね。そして郵政も民営化され、この動きは止まりそうもない。嗚呼、この「美しい国」は、無責任な官僚と、強欲な企業と、批判をしないメディアと、従順にして無関心な国民を組み合わせたらどうなるかを試すために、神が創った壮大な実験場なのかもしれません。でもモルモットにだって一分の魂はあるのだぞ。
by sabasaba13 | 2007-10-09 06:03 | | Comments(0)
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