「摘録 断腸亭日乗(上・下)」(永井荷風 岩波文庫)読了。「戦中派不戦日記」の次の厠上本(便所で読む本)でした、壯吉さん御免なさい。荷風と聞くと、大逆事件の回想を記した『花火』の一節を思い浮かべます。
明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のしたことはなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレヒユー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかつた。わたしは自ら文学者たることについて甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度にまで引下げるに如くはないと思案した。お恥ずかしい話、彼の作品は『墨東綺譚』と『日和下駄』しか読んだことがないので、品位云々については判断できません。ただ何も言わなかった荷風が、その後強権とどういうふうな関係をもったのかについては興味があります。そして荒れ狂うウルトラ・ナショナリズムと侵略戦争のさなかで、どういう生き方を貫いたのかについても。 諧謔味にあふれた瀟洒な文に魅了されながら、楽しく読み通すことができました。彼は象牙の塔に籠もっていたわけではなく、下駄を鳴らしながら実によく東京中を歩いているのですね。そして旺盛な好奇心。市井のゴシップから、ふと目にした出来事、そして社会や政治の動きにまで関心を怠らず書き留めています。そして醜悪な物や事件に対する、容赦のない痛罵。これは爽快でした。モラルを知らない子供に対しては「凶悪暴慢」、江戸の面影を破壊しながら成長する東京に対しては「山師の玄関」、一笑してしまいました。中でも軍部や政治家の暴慢とそれを許容する日本人・日本文化に対する批判には、よく耳を傾けるべきでしょう。彼の予言どおり、ほとんど変わっていないのですから。いくつか抜粋をします。 1919.7.20結局、荷風は強権に対して怜悧な憎悪をもって対抗しようとしたのかもしれません。そして強権の横暴に立ち向かうには、個人の覚醒が必要だと。私は個人の覚醒=批判精神と受け取りました。周囲の雰囲気に安易に同調せず、自分の眼で事態を見つめ考え、そして国家権力に対する警戒心を常に失わないこと。ただ彼の批判精神の機軸にあったのは欧米文明だったのかなという気がします。例えば次の一文です。「米国よ、速に起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を与へしめよ(1941.6.20)」 さすがの荷風といえども、日本帝国を上回るアメリカ帝国の暴慢さには気づかなかったのか。 次なる厠上本は『夢声戦争日記』(中公文庫)です。荷風と同時代を生きながらも権力への批判精神をもちえず同調していった徳川夢声、当時の多くの人々の気持ちや考えを代弁してくれるものと期待します。
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自己紹介
東京在住。旅行と本と音楽とテニスと古い学校と灯台と近代化遺産と棚田と鯖と猫と火の見櫓と巨木を愛す。俳号は邪想庵。 カテゴリ
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