「自由の牢獄」

 「自由の牢獄」(ミヒャエル・エンデ 田村都志夫訳 岩波現代文庫)読了。氏の作品は『モモ』と『はてしない物語』しか読んでおりません。とても良き読者とは言えないのですが、人間存在を脅かす邪悪なるものとの戦いを描いた前者は大好きな作品で、時々読み返したくなります。たまたま書店で見かけて購入した本書は、氏の晩年の短編小説を収録したものです。何とも言えず不思議な味わいの小説ばかりで、あっという間に読み終えました。莫大な資産をもつ冷徹な男が一枚の絵に心を奪われ、そこに描かれた場所を捜し求める『遠い旅路の目的地』。魔術師にして建築家のボロメオ・コルミがつくった摩訶不思議な歩廊を描く『ボロメオ・コルミの通廊』。この小説を読んだ読者が、子供時代に出会った外壁のみで内部のない小屋を思い出す『郊外の家』。何人でも乗り込むことができ、さらには内部にガレージさえある車を描く『ちょっと小さいのはたしかですが』。影の民を支配するミスライム(なぐさめ女史)とある男との闘いを描く『ミスライムのカタコンベ』。砂漠の中につくられた完璧な都市の調査に旅立つ『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』。神を冒涜して盲目の乞食となった人物が経験した『自由の牢獄』とは? 手品師ヒエロニムス・ホルンライバー、別名マット、別名アタナシオ・ダルカーナ伯爵、別名インディカヴィアの生涯を描く『道しるべの伝説』。
 中でも、『ミスライムのカタコンベ』と『道しるべの伝説』の二作がお気に入りです。まずは『ミスライムのカタコンベ』から引用します。
 あの忌まわしい薬を影の民に与えると、すべて忘れてしまう。そうとも、みんなは虜囚であることすら忘れる。これまでいつも影の民だったわけではないことも忘れる。ミスライムのカタコンベの外側に別の世界が存在することも忘れる。影の民は昔そこからやって来たのだ。以前も以後もみんな忘れる。問いかけやあこがれもすっかり忘れるのだ。おお、そうだとも、みんなは現状に満足している。思い出がなく、比べることができないのだからな。みんなに残されているのは個々の瞬間だけなんだ。奴隷状態以外を知らぬ奴隷はおとなしい奴隷だ。俘虜生活しか知らぬ俘虜は自由がないことに苦しまない。これこそが、なぐさめ女史が与える救いの方法なのだ。

 「それで、もし影の民がこの忌まわしい薬をもらうことをやめれば…」とイヴリィはかすれた声で言った。
 「そう」老人はほとんど消え入りそうな声をかろうじてしぼり出した。「みんなひどく苦しみだすだろう。思い出しはじめるから…、だが、ミスライムから脱出する道はそのほかにはない。だからおまえはみんなを苦しませなければならない。全部破壊するんだ…行け、壊せ、早く壊すんだ!」
 これは問いかけ=批判精神やあこがれ=理想や希望を忘れさせるための忌まわしい薬が満ち満ちている今の日本のメタファーとして読めますね。携帯電話、ファミコン、TV、ファッションなどによって個々の瞬間だけが与えられ、現状を批判し理想を掲げる視座を持たない私たち…。そして今、若者が追い込まれている苛酷な労働条件は、奴隷状態以外を知らない奴隷、おとなしく自由がないことを苦しまない人間にしてしまうための自民党・官僚・財界の戦略ではないかな。中年層にこんなことをしたら社会不安が起こるでしょうが、人生経験の少ない若者だったらすぐに慣れ、三十年後には全世代を奴隷・俘虜にできますから。なお、フランス政府も同様の政策を強行しようとしましたが、周知のように若者の猛反対でぽしゃりました。
 そして『道しるべの伝説』からの引用です。
「…一体この世には何の意義があるんですか」
「知るものか。それに関心もない。意義などなくとも、わしは生きてゆける。…わしは偶然この世に生を受け、また偶然この世から去っていく。その間に手品遊びをする時間が少々ある。金持ちになりたい者もいれば、権力を得たいと思う者や幸せをさがす者もいる。知らぬ者は幻想をいだき、知る者は他の者の幻想をつくる。これが違いだ! ひとつだけ言っておこう。希望や良心なんぞはないほうが生きやすいぞ。さあ、捨てるがよい」

 この日々を通じて、ヒエロニムスはあるひとつの心象ができていった。人間とは天と地を結ぶ、かぎりなく長いくさりだという心象である。このくさりの一つひとつの環はそれだけでは意味がなく、ほかの環とつながることで、くさり全体の役に立つ。そして、高みにある環も低みのそれに優るわけではない。その場所がどこであろうと、同じように重要だ。
 上はヒエロニムスが師事した手品の師匠の言葉です。全世界が陥りつつある、生・他者・未来に対する無関心への鋭い警鐘! 「希望や良心なんぞはないほうが生きやすい」世界、臓腑を抉られ切り刻まれるような言葉です。それに対置される美しい言葉が印象的です。「ほかの環とつながることで、くさり全体の役に立つ」世界。著者の白鳥の歌として、しかと受け止めたいと思います。

 追記。個人的に収集している「いい言葉」コレクションを検索してみたら、ミヒャエル・エンデ氏のものが三つありました。紹介します。なお一番上は出典が未詳、下の二つは『モモ』からの引用です。われわれ人類を脅かす三つの邪悪、金と有用性と無気力…
 ある人が西暦元年に1マルク預金したとして、それを年5%の複利で計算すると現在その人は太陽と同じ大きさの金塊を4個分所有することになる。一方、別の人が、西暦元年から毎日8時間働き続けたとする。彼の財産はどれくらいになるか。驚いたことに、1.5gの金の延べ棒一本にすぎないのだ。この大きな差額の勘定書は、いったいだれが払っているのか。

 みんなはそれぞれの住む地区にしたがって、べつべつに<子どもの家>にほうりこまれました。こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びをきめるのは監督の大人で、しかもその遊びときたら、なにか役に立つことをおぼえさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。しだいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくもなさそうに、ふくれっつらでやります。そしてじぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。たったひとつだけ子どもたちがまだやれたことはといえば、さわぐことでした。-でもそれはもちろん、ほがらかにはしゃぐのではなく、腹だちまぎれの、とげとげしいさわぎでした。
 「そんなことがおもしろいの?」とモモは、いぶかしそうにききました。
 「そんなことは問題じゃないのよ。」と、マリアはおどおどして言いました。
 「それは口にしちゃいけないことなの。」
 「じゃ、なにがいったい問題なの?」
 「将来の役に立つってことさ。」とパオロがこたえました。

 「はじめのうちは気がつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそ何も感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」

by sabasaba13 | 2008-03-19 06:36 | | Comments(0)
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