「愛蘭土紀行」

 「愛蘭土紀行(Ⅰ・Ⅱ) 街道をゆく30・31」(司馬遼太郎 朝日文庫)読了。アイルランド旅行のための予習の一環として拝読いたしました。本書はイギリス・アイルランド紀行文で、冒頭三分の一ほどがロンドンとリヴァプール、残り三分の二ほどがダブリン・ゴールウェイ・アラン諸島等についての記述という構成。正直に言ってあまり良き読者とは言えませんが、氏の語り口にはついついひきこまれてしまいます。豊かな学識に裏打ちされたテンポのよい(時には啖呵のような)文体、卓抜な比喩、そして意表をつく着眼。あっという間に読み終えてしまいましたが、濃厚な余韻を味わえないのが欠点と言えば欠点ですね。些細なものですが。
 なるほどと頷いたところをいくつか紹介します。聖パトリックなどアイルランドにカトリックを広めた修道僧たちは、土俗信仰(ドルイド教)を排除・弾圧しなかったそうです。その結果、アイルランドでは妖精たちが生き延びることになりました。(「妖精が横切るよ」という道路標識もあるそうな) アイルランド人を父にもつ小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、英国で受けた恐怖の小学校教育により神経にひずみを受け、キリスト教とヨーロッパ文明を憎悪するようになりました。その結果、妖精を幻視するケルト的心性がよみがえり、やがて妖怪が跋扈する日本に魅かれるようになったのではないか。
 氏のジェイムズ・ジョイス論も興味深いものです。以下、引用します。
 彼にとっての英語はアイルランドが英国から押しつけられたことばで、英語を守るとか、不可侵なまでの神聖感はすくなくとももっていない。といって、ゲール語(アイルランド固有のことば)をつかうつもりはない。またゲール語を使いましょうという運動には参加せず、これには冷淡だった。英語は彼にとってうまれながらの言葉であるうえに、ゲール語よりも表現力があり、かつなによりも英語大衆の人数が多い。かれの文学は読み手として知識人を多くもつ必要がある。当然、かれは英語をえらんだ。そしてこわした。
 アイルランドという英語に熟達しながらも違和感・距離感をもつ国に生まれたからこそ、深い思い入れ抜きに、英語をこねくりまわし破壊することができたのですね。丸谷才一氏言うところの「壮大で破天荒な言葉のいたづらの組合せ」を生み出した秘密の一端を垣間見ました。
 またリヴァプールには、貧困や飢饉から逃れて来たアイルランド移民が多く、ジョン・レノンはその末裔ではないかと推測した上で、ジョナサン・スウィフトとジョン・レノンの共通点を語ります。弱さや愛情への飢餓、それと裏腹の非情さと残酷さと人間嫌い、そうした思いを言葉と音楽に紡ぎ叩きつけるように表出させる。その背景には、貧困と植民地支配に喘ぎながらも、芳醇な言葉と詩と音楽を生み出し続けてきた(いやそれしか資源がなかったというべきなのか)アイルランドという国の歴史があるのではないか。時空を超えて、この一見異質な両者を鉢合わせさせ共通点を見いだした筆者の炯眼には恐れ入ります。スウィフトに関心がある方は(たぶん)レノンの音楽は聴かないだろうし、レノンが好きな方は(おそらく)スウィフトの酷烈な書を読まないのではないかな。
 道路沿いの農家が大変立派であることに気づき、いろいろと調べて「農村は無税で、家を建てる時には補助金が政府から出る。国家の基礎は農家と牧畜―国民の食糧の確保にある―というこの国の姿勢は、不変なものであるらしい」とコメントをするなど、アイルランドの政治や社会状況に対する眼も行き届きます。自然描写がやや物足りないと感じましたが、関心がまず人間のありように向いてしまうという筆者の資質によるものかもしれません。
by sabasaba13 | 2008-06-11 06:13 | | Comments(0)
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