日本文化と自分文化

 今回の京都錦秋旅行(07.12)では、長谷川等伯や千利休による素晴らしい作品と向き合えました。で、最近気になるのが、「日本文化」を声高に称揚する動きです。そこにある種のいかがわしさと情けなさを感じるのは私だけでしょうか。曰く「日本文化は素晴らしい」、曰く「日本人に生まれてよかった」、曰く「日本人は日本文化を知らなくてはいけない」 その背景にあるのは、きわめて短絡的にして粗雑な思考です。"等伯や千利休の作品は素晴らしい→彼らは日本人だ→今生きている私たちも同じ日本人だ→よって私たちにも素晴らしい文化を生み出す力量が備わっている/世界に冠たる日本文化をもつ日本人として生まれたことに誇りをもとう" やれやれ、チャーリー・ブラウンのような溜息が出てしまいます。sigh… まあ一種の自慰行為として寛大に聞き流せばいいのかもしれませんが、下手をすると偏狭なナショナリズムに転化して再び大きな災禍を招きそうな嫌な予感もしております。何か一言棹差したいなと漠然と思っていたら、ふと以前に読んだある一文を思い出しました。文化人類学者の岩田慶治氏によるものですが、申し訳ありません、出典は不明です。備忘のために記録しておいたものを以下引用します。
 もう二十年あまり前のことであるが、私は『日本文化のふるさと』という本を書いた。この本は表題に日本文化を謳ってはいるものの、その内容は、海の彼方の東南アジア各地に見いだされ、その構造が日本文化よく似た文化について述べたものである。
 岩戸隠れ神話と酷似する伝承を紹介し、鏡と玉と剣を飾っておこなわれる宗教行事について述べ、高木と鳥居と社のむすびつきと、それをめぐる神事について数多くの事例をあげて解説したものである。これこそが日本文化のシンボルだといわれていたものが、実は海の向こう側にもあるという事実に注目して、いわゆる日本文化の普遍性に着眼したつもりなのである。
 文化というものは、言語がそうであるように、漂流し、土着し、変化するものである。同じ文化でも、厚く堆積したところと、表面的に撒布されたところがある。濃淡があり、分布のむちがある。だから日本文化の固有性、特異性を主張するには慎重でなければならない。
 このごろ、国をあげて国際化が唱えられ、その声、その流れのなかで日本文化を再認識しようという試みが活発である。
 それは大いに結構であるが、そのさい日本文化の存在が当然の前提とされている嫌いがある。日本文化とは何か、果して日本文化と呼べるものがあるのか、という根本的な自己反省から出発してもよいのではなかろうか。
 さて、はじめに触れたような文化比較論から離れて、換言すれば遠景としての日本文化論ではむく、一歩、その文化の内側に踏みこんでみよう。日本文化と呼ばれる額縁を取り外して、自ら画面の中に入って筆を取るといってもよい。そうすると、そこにえられる光景は外からの眺めとはずいぶん違うのである。そこに見えてくるのは、作者の行為とその作品なのである。農民は稲を育てて米をつくる。みかん農家はみかんの木を育ててみかんをつくる。別に、日本文化をつくっているわけではない。
 人麻呂は、亡き妻を偲んで挽歌をつくり、赤人は自然の寂寥宰相を歌って自分を表現した。能だって、茶道、華道だって、また茶碗をつくる人も、それぞれの創造者はその道によって自己表現を試みたのである。親鸞や道元が生涯をかけて追求したところは、日本文化とはかかわりのない世界であった。
 創造者たちはそれぞれに自己表現の究極を目ざしたのであった。別に、日本文化をつくろうとしたわけではない。強いていえば、自分文化をつくろうとしたのである。
 万葉集には自ずから万葉調のリズムが流れ、古今集には、また、それなりの微妙な言葉のひびきがある。だから、そこに日本文化の基調音を聞きとることはできるかもしれない。しかし、それは作者の与り知らぬことで、作者は自分の作品が日本文化の標本にされることに迷惑しているかもしれないのである。
 文化という歴史的な堆積物を、どういう額縁にいれるか、それを人間集団のどのレベルで切って、その裁断面を点検したらよいのか。自分か、民族か、国民か、人類か、それとも草木虫魚か。それが問題である。
 私としては、まず、これらの名称のもつ言葉のあいまいさを正したいのである。「自分って何」、「民族って何」、「国民って何」、「人類って何」、「草木虫魚って何」。
 言葉を正して、文化を創造する。
 私の願うことは、日本文化を支えることではなくて、自分文化を開花させることなのである。
 そうですよね、利休は、日本という国を称揚するために待庵をつくったのではなく、等伯は、日本文化の優秀性を証明するために「楓図」を描いたのでもない。あくまでも自分のために、そうした作品を創造した。それを偏狭なナショナリズムや自慰に利用されたら、彼らにとって心外でしょう。彼らが、そして世界各地の人々が創造した真善美を真摯に受け取り、それをもとに「日本」という近代以降にできたせせこましい枠にしばられない自分文化を創り出していく。とてもとても実現はできないでしょうが、せめてその志だけでも(ほんの少し)持ちたいと思います。少なくとも、「日本文化は素晴らしい!」と無邪気にはしゃぎまわる風潮とは、少し離れたところにいたいな。
by sabasaba13 | 2008-06-18 06:04 | 鶏肋 | Comments(0)
<< 「貧困の世界化」 京都錦秋編(19):天授庵(0... >>