六義園・戦争遺跡編(2):東京砲兵工廠銃砲製造所・圧磨機圧輪記念碑(07.12)

 さて、再び駒込駅に戻り、池袋で埼京線に乗り換えて十条で降り、南東へと向かいます。北区中央公園に入ると、色づいた公孫樹の落葉が地面をまっ黄色に染め上げていました。
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 お目当ては、ここで文化センターとして使用されている建築です。実はこのあたり一帯は、戦前の造兵廠だったのですね。日露戦争を契機に東京砲兵工廠銃砲製造所が、水戸藩徳川家上屋敷跡(現在の後楽園)からここ、かつての北豊島郡王子村大字下十条に移転され、その後周辺に軍関係の施設が次々と建設されました。その本館が、現文化センターというわけです。なお、ベトナム戦争の激化にともなって、1968年に王子野戦病院が開設されたことも記憶にとどめましょう。
 ここから埼京線の線路を西へ渡り、石神井川にそってしばらく歩くと東板橋体育館にたどりつきます。その隣にある小さな加賀西公園には、圧磨機圧輪記念碑があります。このあたりは加賀藩前田家の下屋敷がありましたが、陸軍省がこれを買収し石神井川の水力を利用した洋式火薬製造所を開設しました。1882(明治15)年には東京砲兵工廠板橋火薬製造所と改称され、日本軍の使用する火薬生産を担い続けることになります。その創設者・澤太郎左衛門が幕府の命によりベルギーで購入した圧輪(硫黄・木炭・硝石を砕き潰すための石製の巨大な車輪)が、モニュメントとして残されています。この圧輪は、1876(明治9)年から1906(明治36)年まで、黒色火薬を製造するときに実際に使用されていたものだそうです。てことは、西南戦争や日清戦争や日露戦争で使用された黒色火薬はこの圧輪によってつくられたわけだ… 手で触れると、圧倒的な存在感をもって冷ややかな石の感触がしんしんと伝わってきます。まるで「これが近代なのだよ」と語りかけるように。すぐそばには、1905(明治35)年7月24日の爆発事故で落命した七人の職工を悼んだ「招魂之碑」が静かに佇んでいます。ポーツマスで講和会議が開かれたのは同年8月ですから、その直前です。これ以上戦闘が長引けば敗戦は必至という状況の中で、軍の過酷な要請によって火薬の増産が急ピッチで行われた結果としての事故ではないのでしょうか。合掌。そしてJR板橋駅まで歩いて帰宅。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-07-05 08:12 | 東京 | Comments(0)
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