「中国名文選」

 「中国名文選」(興膳宏 岩波新書1113)読了。書店に平積みにしてあった本書のタイトルを見て、無性に漢文が読みたくなり購入しました。光景を的確に描き出す表現や(ex.溽暑蒸蒸)や、考えを簡潔に力強く言い当てる表現(ex.春秋無義戦)に出会うと、背筋がぞくっとします。こうしたイメージ喚起力を味わえるというのは、漢字文化圏に生まれた役得ですね。本書は、中国文学研究者の興膳氏が、中国古典の魅力や面白さを多くの人に知ってほしいとの意図で書かれたものです。漢詩や故事に関する解説書はよく見かけますが、本書は漢詩ではない様々な形式の、しかもかなり長めの文章を取り上げ解説してくれています。これは新鮮でした。さらに中国文学に置ける文章の歴史もつかめるようにも構成が工夫されています。紹介されているのは、孟子、荘子、司馬遷の「史記」、けい康の「山巨源に与えて交わりを絶つ書」、陶淵明の「桃花源の記」、劉きょうの「文心離龍」、李白の「春夜桃李の園に宴するの序」、韓愈の「殿中少監馬君墓誌」、柳宗元の「始めて西山を得て園游する記」、欧陽修の「酔翁亭の記」、蘇軾の「赤壁の賦」、そして李清照の「金石録後序」です。馴染みの深い文人の中に、めったにお目にかかれない作品をちりばめた、なかなか味のある選ですね。いずれも楽しめたのですが、特に心に残ったのは李清照です。彼女は、中国文学史においては稀有な女性詩人です。北宋末期の人、金石学(金属や石に刻まれた文を研究する学問)の研究者・趙明誠と結婚し、二人で協力して「金石学」という大著をまとめます。しかし女真族の国家・金が南侵し、1128年に宋の都・開封を陥れます。(靖康の変) 夫妻の家も焼かれ、膨大な資料は灰燼に帰し、逃げ出した江南の地で二年後に夫は病没してしまいます。亡き夫と過ごした往時を回顧して著したのが、この「金石録後序」という作品です。その一部を紹介します。
 余は性偶(たま)たま強記にして、飯罷(おわ)る毎に、帰来堂に坐して茶を烹(に)、堆積せる書史を指して、某事は某書の某巻、第幾頁の第幾行に在りと言い、中否を以て勝負を角(あらそ)い、茶を飲むの先後となす。中れば即ち杯を挙げて大笑し、茶傾きて懐中に覆り、反って飲むを得ずして起(た)つに至る。是の郷に老ゆるに甘心し、憂患貧窮に処ると雖も、志屈せず。

 私は生まれつきたまたま記憶力が強くて、いつも食事が終わると、帰来堂に坐ってお茶を煎じ、うずたかく積まれた書物を指さしては、「あの事はあの書のあの巻の、第何頁の第何行にある」といって、当たるかどうかを夫と賭け、お茶を飲む順序を決めていた。当たれば茶碗を挙げて大笑いし、茶がこぼれてふところに入り、かえって飲めなくなって立ち上がるようなありさまだった。こんな状態で年をとることに満足していたから、憂患や貧窮にあっても、くじけることはなかった。
 ええなあ… 贅言ですけれども、学問で結びついた、夫との貧しいけれども幸せな暮らしをぴしっと伝えてくれる素晴らしい文ですね。特に最後の「甘心老是郷矣 雖処憂患貧窮 而志不屈」には胸をつかれます。志を掲げ、夫婦で手を取り合って暮らす充実した日々を肯定すれば、どんな事があっても挫けない。携帯電話、ダイエット、グルメ、芸能界、車、と際限もなく虚しい浮誇を追い求める私たちにとっての警告にも見えてきます。また現状に満足し、企業やCMにまるめこまれて不必要な物を買わない、と受け止めると、これは地球温暖化に対するきわめて有効な処方箋にもなりえます。こうした、知識ではなく、知恵を学べるのが古典なのだと痛感します。

 昨今の漢字あるいは漢字検定ブームに異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、その奥にある中国古典の魅力、そしてそこに含まれる多くの知恵に触れようとする気運が高まってほしいな、と思います。また「中国人は…………だ」という、粗雑にして軽忽な本が巷に氾濫しているのも心配です。ジョージ・オーウェル言うところの"人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるもの"と思い込む恐るべき陋見が、この国の人々に蔓延しているのかなあ。嫌だなあ。石原慎太郎強制収容所所長が「ある不法入国の中国人が仲間の顔の皮を剥いで殺したという事件は、中国人の民族的DNAを表示する」という趣旨の発言をしましたが(「産経新聞」2001.5.8)、それを受け入れる素地があるのを知った上でのものでしょう。こうした陋見が、今、世界に何をもたらしているか、そろそろ気づいてほしいと思います。
 より多くの人が中国の古典に親しみ、文化や生活習慣の違いはあるけれども、そこには共有・共感できる人類の叡智がたくさんあることを知ってほしい、微衷よりそう考えます。
by sabasaba13 | 2008-07-17 06:17 | | Comments(0)
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