駿河編(10):清見寺(07.12)

 さてやってきたバスに乗り込み、再び清水駅へ。そして東海道本線に乗ること4分で興津に到着です。お目当ては清見寺と坐漁荘。駅から国道ぞいに西へ十分ほど歩くと古刹・清見寺に到着です。白鳳年間(7世紀後半)に東北のいわゆる蝦夷に備えてこの地に清見関という関所が設けられ、その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されたことが嚆矢だそうです。鎌倉時代には禅宗に改められ、室町には足利尊氏が深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して南北朝内乱の戦死者の霊を慰めました。その後、駿河を領した今川氏が外護し、雪舟も訪れたそうです。戦国時代になると、この地は自然の要害となったので、今川・徳川・武田・北條等の戦国大名が陣をしき城として使用しました。なお徳川家康が幼少時今川氏の人質として駿府にいた頃、清見寺住職より教育を受けたそうですが、その縁でしょうか、江戸時代には徳川一門の帰依を受けるところとなりました。この時代に、朝鮮通信使や琉球謝恩使・慶賀使が本寺をしばしば訪れ、旅の疲れを癒し、日本の文人・知識人と交流しながら詩をつくり絵を描いたそうです。辛基秀氏は「隣国同士友好関係を200年以上崩さずに維持したことは世界史的にも類を見ないこと」と言われていますが、その証である扁額が展示されているというので是非拝見したいと思ったわけです。
 吃驚したのは、山の斜面にある寺の眼前を東海道本線が走っていることです。よって寺の敷地に入り踏み切りを渡って、入山することになります。鎌倉の円覚寺もそうでしたが、何か理由がありそうですね。
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 拝観料を支払い、大方丈に入ると朝鮮や琉球の使節によって書かれた数多の扁額(複製)が飾られていました。浅学な小生にはとても読みこなすことはできませぬが、その真摯な志は伝わってきます。漢字を使えば文化交流ができた時代だったのですね、あらためて日本・朝鮮・琉球を包み込んだ漢字文化圏の存在を痛感しました。
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 その奥には血天井がありました。これまでも京都の養源院源光庵で拝見しましたが、こちらにはどんな謂れがあるのでしょう。どれどれ解説を読むと、1200(正治2)年梶原景時一族が鎌倉を出奔し西国に向かう途中で一戦交えた建物の古材を天井板として使っているそうです。うむむ、これはもしや日本最古の逸品ではないか。血天井研究者のご教示を請う。とはいっても、血と汚れの違いを判別できませんでしたが。大方丈裏手では、江戸初期の庭園を見ることができます。
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 ここにある西の間は、徳川家康が手習いをした部屋だそうです。そして二階にある書院・潮音閣へ。海が一望できますが、視界を遮る建物が建ち並び、往時の眺望は想像するしかありません。
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 大方丈の前に出ると、「咸臨丸碑」がありました。戊辰戦争の際に、清水港で新政府軍と戦い幕府に殉じた乗組員を、榎本武揚が悼んだものです。銘文は「食人之食者死人之事 (人の食を食む者は人の事に死す)」。
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 左手に回ると、江戸中期につくられた五百羅漢石像がありました。島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面で、ここが舞台となっているとのこと。
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 すぐ脇に豪放磊落な達筆で「防火槽」と書かれた黄色いバケツがあったので、これこそ禅の心だといそいそと近づいてみるとただ下手なだけでした。なお門前には「高山樗牛仮寓之処」という碑があります。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-07-21 17:36 | 中部 | Comments(0)
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