浅草七福神編(5):寿老神(08.1)

 次は寿老神のいらっしゃる石浜神社です。途中に「船七」という粋な名前の煙草屋を発見。昔は船宿だったのかな。そして白鬚橋のたもとに到着です。なおこの橋は(今はわかりませんが)、かつて東京生まれの人間にとっては鬼門でした。「しらひげばし」と言えずに「しらしげばし」となってしまいます。「ひ」が上手く発音できないのですね。うちのじさまは、ニシキヘビってえのはいつも二匹でつるんでいるものだと思っていたそうです。閑話休題、まじまじと見るのははじめてですが、なかなか恰幅のよい堂々とした橋です。ちょっと旭川の旭橋に似ているかな。気になって今調べたところ、完成は1931(昭和6)年、そして(ああ以前拙ブログに書いたのを忘れていました)橋梁形式はブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチ橋を採用、日本でこの形式の橋は白髭橋、岩手県一関市の北上大橋、岐阜県岐阜市の忠節橋、そして旭橋の4例しかないということです。道理で似ているはずだ。橋のたもとには「明治天皇行幸対鴎荘遺蹟」という碑がありました。どりゃどりゃ碑文を読んでみると、かつてここに三条実美の別邸・対鴎荘があったそうです。1873(明治6)年、太政大臣であった実美が心労によって倒れここで療養している時に、明治天皇が見舞いに来たそうな。なるほど明六政変の頃だ。征韓論を唱える西郷隆盛・板垣退助らに対し、岩倉使節団の一員として視察を終え帰国した大久保利通らが内治優先を主張してこれに反対、同時に留守政府の中核として主導権を握りつつあった土佐・肥前勢力を政権から排除するクーデター(明六政変)を決行した頃です。そりゃそうだよなあ、ぼんぼんの公家さんが、この海千山千の連中を相手にしていたら、病気にもなるでしょう。
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 そして橋場不動尊から歩いて十分ほどで石浜神社に到着です。茅の輪をくぐって本殿の右手に寿老神が祀られていました。寿老人(神)は道教の神で、鹿をしたがえています。鹿はロクと読み、禄に通じるところから福禄の神とされたそうです。繊細な感じの木彫りの像でした。本殿の右手には、溶岩でつくったようなゴツゴツとした小さな山がありました。富士塚にしては小さいなと思い近づいてみると「富士山遥拝所」とあります。なるほどここから富士を拝んだわけだ。ちなみにこのあたりは江戸時代、東に隅田川、西に富士、北に筑波山を眺められる絶景の地で、歌川広重も浮世絵の題材としてよく取り上げたそうです。信じられない話ですね、今となっては高層マンションしか見えません。なお蔵書で確認したところ、どうやら「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」がそのうちの一枚ですね。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2008-08-20 08:58 | 東京 | Comments(0)
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