「マルクス・アウレーリウス 自省録」

 「マルクス・アウレーリウス 自省録」(神谷美恵子訳 岩波文庫)読了。マルクス・アウレーリウスとはどんな人? 以下、ウィキペディアから引用します。
 マールクス・アウレーリウス・アントーニーヌス(121~180)は、第16代ローマ帝国皇帝。五賢帝の最後の1人。ストア派哲学に精通し、晩年には自らの体験を『自省録』に遺したことから、後世「哲人皇帝」と称された。対外的にはパルティアやゲルマン人の侵入、国内ではキリスト教勢力の拡大や飢饉、叛乱の発生など、その治世は多難な時代の始まりであった。これらの難題に対して果敢に対処し、晩年も自ら陣頭指揮をとって叛乱を鎮圧するなど、内憂外患の苦境に陥るローマ帝国の安定化に奔走した。一方、後継者指名に禍根を残したことにより、五賢帝の時代は彼の治世をもって終わりを告げた。
 その彼が重責の中で、日々内省したことを綴ったのが本書です。そういえば高名はよく聞くが読んだことないなあ、とふと書店で購入し一読したのですがこれがけっこう面白い。堅苦しく説教くさく偉そうな内容なのかなと先入観を抱いていたのですが、そのようなことはありません。日々、直面する大小さまざまなトラブル・衝突・難問に対して悩み苦しみながら、それから逃げずに何とかして立ち向かおうとした生身の人間の姿がここにあります。自分だけを例外的な存在として、高所からお説教を垂れるというものではありません。
 例えば、ある日、部下がとてつもない失策をやらかして彼は激怒したのでしょうね。その夜に、彼は反省してこうノートに書きつけたのでしょう。
 よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じことをやりつづけるであろう。
 ただ無闇に叱責するのではなく、彼が二度と同じ過ちをしないよう導かなければならないのだと。またある朝、日頃の激務により疲労困憊して定刻に起きられなかった時、こう書きつけたのではないかな。
 明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」 自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。「だってこのほうが心地よいもの。」 では君は心地よい思いをするために生まれたのか。いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
 またある時、自分が正しいと思って行なった政策に対するローマ市民の不満や批判が耳に入りました。悔しさに眠れぬその夜、こんなことを書きつけたのでしょう。
 もし水兵たちが舵手の悪口をいい、病人たちが医者の悪口をいったとすれば、それはその人間がどうしたら乗組員の安全を、また患者たちの健康を、もたらすことができるかとの心づかいからにほかならないではないか。
 思わず微笑みがこぼれるのは、けっこう同じ内容の自省が多いということです。きっと同じようなことで失敗し、また反省するという繰り返しだったのでしょうね。彼がわれわれ凡百の人間と違うのは、それを自省をやめなかったこと、そして文章として書き残したことだと思います。人間的な、あまりにも人間的な哲人皇帝の残した言葉の数々、一聴に値すると思います。重責を担おうとせず己の利権や地位のことしか脳裡にない、政治家・官僚・財界諸氏に読んでほしいのですが、これは無理無体な注文ですね。せめて彼が死ぬ直前、意識朦朧とした状態で呟いたといわれる言葉を彼らに贈ります。「戦争とはこれほど不幸なことか」
 なお私の心に残った言葉を二つ、紹介します。
 私は同胞にたいして怒ることもできず、憎む事もできない。なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両眼瞼や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。そして人にたいして腹を立てたり毛嫌いしたりするのはとりもなおさず互いに邪魔し合うことなのである。

 君はどんな被害を蒙ったのか。君が憤慨している連中のうち誰一人君の精神を損なうようなことをした者はいないのを君は発見するであろう。君にとって悪いこと、害になることは絶対に君の精神においてのみ存在するのだ。
 誰も私の精神を損なうことはできない、それができるのは私だけである、ということですね。銘肝しましょう。
by sabasaba13 | 2008-10-10 06:04 | | Comments(0)
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