「鳥類学者のファンタジア」

 「鳥類学者のファンタジア」(奥泉光 集英社文庫)読了。映画「Shall we ダンス?」(監督:周防正行)の冒頭でシェ-クスピアの言葉が掲げられていました。
Bid me discourse, I will enchant thine ear.
物語せよといへ。われ汝の耳を魅せる話をせむ
 映画を見た時から気になっていたので、後日調べたところソネット「ヴィーナスとアドニス」(1593)の一節でした。わくわくするような、どきどきするようなお話、私にとって読書の悦楽の一つは、そうした小説に身も心ものめりこむことです。時間がたつのを忘れ、残りのページが少なくなるのをいとおしむ、しかし最近は面白い小説になかなか出会えません。歳とともに感性が鈍磨したのか、魅力的な小説が減ってきているのか、どちらかはわかりませんが(たぶん前者)、残念なことです。しかしひさかたぶりに寝る間を惜しんで一気読みしたのが本書です。
 主人公は「フォギー」ことジャズ・ピアニストの池永希梨子、いいかげんでずぼらで小心者だけれど、いざという時には後へは引かない、そして何よりもジャズとピアノを愛する好人物です。(演奏の方は少々スランプ気味) その彼女がナチス支配下にある1944年のドイツにタイムスリップしてしまい、「オルフェウスの音階」という摩訶不思議な音階に関する陰謀にまきこまれていくことになります。そこで出会ったのが、その演奏を任された曾根崎霧子、実は希梨子の祖母なのですね。ひたすら求道的に完璧な音楽をめざす霧子と、聴衆や共演者との関係を大事にして喜ばしき音楽を求める希梨子、この二人の関係を軸に、まるでウィントン・ケリー(p)+ポール・チェンバース(b)+ジミー・コブ(ds)をバックにしたがえたようにお話はずんずんと前に前に進んでいきます。これにからむのが、しっかり者/ちゃっかり者の弟子・佐知子ちゃん、得体の知れない協力者・加藤さんという魅力的な脇役。しばしば脱線や寄り道して挿入されるエピソードや余談にも、心が弾みます。そして圧巻は、同時期のニューヨークにトリップし、ミントンズ・プレイハウスでマイルス・デイビスたちと共演し、チャーリー・パーカーの演奏に聞き惚れるシーンです。臨場感にあふれる描写に圧倒されて、一気呵成に読んでしまいました。その後に希梨子はこう独白しますが、たぶん著者がいちばん言いたかったことではないかな。「なにかを求めながら、なにも得ることができず、なにかを持っていると思っていたのに、なにもかもを失っていたと気づいたとき、失意の底にあって、絶望の淵にあって、でも、柱の陰から聴こえてくる音楽を耳にすれば、心にほのかな明かりが灯って、これさえあればなんとかなるんじゃないのか、やっていけるんじゃないのかと、かすかな勇気が出てくるような音楽。きっと、それがジャズだ。」
 話の要となる「オルフェウスの音階」に関する描写がわかりにくいのが難ですが、スピード感のある話の進行と、諧謔味にあふれた小気味よい語り口が、それを補って十二分にあまりあります。もっとも感銘を受けた言葉を最後に紹介しましょう。閉塞感が夜の霧のようにあたりを包み込んでいる今の日本と世界においては、希梨子が言うように、自分とは違う異質な他人と一緒に世界をつくっていくしかないという、明るい覚悟がもっとも大事なものかもしれません。
 一定のルールの下で対話的に音を出し合い、その過程でルール自体を更新していきつつまた対話を重ねるという、インプロビゼーション(筆者注:即興演奏)の理想状態とは、語の本来の意味において倫理的なものではないだろうかとさえわたしは思う。美や芸術のためなら親でも殺す、といった孤高ぶりはジャズには似合わないのであって、一流のジャズ・プレーヤーは人当たりがいいというのがわたしの持論である。日頃の我が行いを深く反省しつついうなら、つまり、いつでも他人を、他人の音を、他人のふるまいを受け入れる開放性と寛大さこそがジャズ・プレーヤーのいちばん大事な資格なので、芸術家肌のわがままも、職人肌の一徹な頑固さもいらない。気にいろうが気にいるまいが、自分とは違う異質な他人と一緒に世界をつくっていくしかないという、明るい覚悟こそがジャズの精神なのである。
 さて、それではきんきんに冷やしたビールを飲みながら、「ベイシー・イン・ロンドン」の「シャイニー・ストッキングス」を聴きますか。
by sabasaba13 | 2008-10-21 06:07 | | Comments(0)
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