2006年 04月 17日 ( 1 )

「天皇と東大」

 「天皇と東大 大日本帝国の生と死(上下)」(立花隆 文藝春秋)やっと読了。「日本という近代国家がどのようにして作られ、それがどのようにして現代日本(戦後日本)につながることになったかを、東大という覗き窓を通して見る(メーキング・オブ・現代日本)と同時に、歴史を知らなすぎる世代に対して、もう少し、現代日本の成り立ちを知っておけよというメッセージをこめて書いた」というのが著者の意図ですが、ぶっちゃけた話、成功作だとは言いがたいと思います。まずは分析があまりにも紋切り型であること。天皇制、大学制度、戦争責任、右翼と左翼、テロ、思想弾圧などなど論点は多岐にわたるのですが、著者独自の鋭い分析や指摘は見受けられません。また歴史に対する考え方の枠組み(パラダイム)を組み替えてくれるような考察もなし。狂信的な天皇崇拝にのめりこんだ右翼・軍人・学者が、それを退ける知的能力に欠けた民衆をひきずり、戦争へと突っ走っていったというのが一つの結論だと思います。概ね同意しますが、歴史とはそれだけで語れるほど単純なものではないでしょう。何故ファナティックな天皇崇拝を人々が信じたのか、あるいは信じたふりをしたのか、信じざるを得なかったのか、もっと精密な分析が必要ですね。彼らに対する一方的な断罪口調も気になります。当時の国際状況や社会・経済状況に関する叙述も不足しています。自由主義的世界経済システムの崩壊と、それに対する対応としてのファシズム・社会主義・ニューディールの登場、その中で日本型ファシズムをどう位置づけるかという考察が、近現代の日本を理解する上で欠かせないものだと思うのですが。また副題にも掲げられている「大日本帝国の…死」と昭和天皇の関係、つまり戦争責任問題へのつっこみも歯切れが悪いですね。著者が「日本の民族としての戦争責任問題は、いまだかたづいていない。日本の首相の靖国参拝問題がいつまでも日中韓の最もセンシティブな問題でありつづけているのも、それが理由だ。」と指摘するとおりだと思います。しかしその核心に当たる昭和天皇の戦争責任を下記の一文でかたづけるのはいかがなものか。
 形式的理由(立憲君主は形式が整った案件なら意に沿わないサインもしなければならない)だけで、「責任なし」論を貫くのはむずかしいような気がする。
 「御前会議」(中公新書1008 何故か絶版)という大江志乃夫氏の優れた先行研究もあるのだし、もう少し認識を深めることが可能な段階に来ていると思います。いまだタブーがあるというのなら、話は別ですが…
 同時に概念の定義をもっと緻密にしてほしいと思います。例えば、右翼、超国家主義、国粋主義、天皇中心主義といった用語が乱れ飛びますが、その違いを十分に説明されていないようです。
 しかし詳細な挿話や証言は、質量ともに凄いですね。その調査能力と熱意には脱帽します。例えば柳原白蓮と駆け落ちした宮崎龍介が滔天の息子で、この事件によって初期の東大新人会の機能が停止してしまった話や、河合栄治郎の事績・人となりや鶴見祐輔(俊輔と和子の父)との交友関係など、知的好奇心をくすぐられるエピソードが満載。惜しむらくはその内容が玉石混交で、何故こんな話を載せる必要があるのかと疑問に思えるものも多々ありました。その結果、相当分厚い本となり、歴史を知らなすぎる世代が手にしづらくなったのではと懸念します。せっかくの初志がもったいない。

 いろいろブツブツ言いましたが、当時の狂信的な雰囲気をきわめてリアルに追体験できたことは収穫です。かなりコンパクトかつスリムになったとはいえ、個人よりも国家を優先すべきだという国家主義が復活している現在、やはり一読に値する本だとは思います。
 それにしても、戦前の日本で、天皇・国家教信者の右翼と、マルクス教信者の左翼の中間に位置すべき、穏健で冷静で合理的な第三の流れというものが育たなかった/育てられなかった、という点が気になります。後者が壊滅状態となり、多くの人々が前者に引き寄せられ、相も変わらず第三の流れが枯渇しているのが、今の日本における思想状況ではないのかな。
 なぜこの国では、思想が信仰になってしまうのでしょうか?
by sabasaba13 | 2006-04-17 06:04 | | Comments(5)