2008年 03月 13日 ( 1 )

肥前編(12):島原(07.9)

 近くの食堂に入って名物・島原そうめんをいただき、島原城へと向かいます。途中に見事な石組みの塀がありました。
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 そして島原城に到着。松倉重政によって、1618(元和4)年から25(寛永2)年にかけて築城された城で、島原の乱では一揆勢の攻撃を受け大手門を一時破られたそうです。明治維新で廃城となり、現在の天守閣は1960 (昭和35)年に復原されたものです。さっそく入城し最上階に上ってみると、市街・島原湾・雲仙岳を一望できる素晴らしい眺望です。天守閣となりにある休憩所には「火山都市国際会議島原大会」という幟がはたはたとはためいていましたが、いったいどんな都市が集まるのだろう?
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 さて城に登る道の脇にある事務所で自転車を借り受け、まずは時鐘楼、御用御清水を見物。
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 そして鉄砲部隊の住居であった鉄砲町の武家屋敷へ。見事な石垣が並ぶ路地の中央を、小さな水路が流れています。
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 再び森岳商店街に行き、煉瓦づくりのうだつがある中野金物店、鏝絵がある猪原金物店を拝見。金物店が二軒並んでいて商売はやっていけるのだろうかと心配しつつ、サンシャイン中央街のアーケードへ。
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 気をつけてよく見ると、路地のそこかしこに湧水をひいた水飲み場・手洗い場が設置されています。しかも思い思いに工夫した意匠で、これを見て回るだけでも楽しいですね。
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 水頭の井戸を見て、耳洗公園へ。ここには共同の洗い場が残されています。
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 「島原大変」で誕生した白土湖は、一日4万トンの水が湧く「日本一小さい陥没湖」だそうです。
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 古い町並みを走りぬけ、音無川の洗い場を見て、そして大師堂に到着。
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 ラングーンで授けられた仏像を安置するために広田言証が1909(明治42)年に建立した塔で、そのために浄財を寄進した192人の名・居住地が玉垣に刻まれています。その中に、東南アジアで働くからゆきさんの名が数多く含まれています。からゆきさんとは、家が貧困のため海外出稼ぎに出た多くの女性たちのことです。(アメリカ大陸への出稼ぎは「あめゆきさん」) 「から(唐=外国)行き」が語源で、天草や島原の女性が多かったようです。すでに江戸時代から長崎の外国人貿易業者により彼女たちは妻妾や売春婦として東南アジアなどに行ったが、明治維新以降アジア太平洋戦争の敗戦までの日本の大陸進出・南洋開発活動に伴い、シベリア、満州、朝鮮から台湾、東南アジア、太平洋の各地に至る外地のあちこちに日本人業者による組織的売春業が展開されました。家計への仕送りのため密航する者もおり、総計万単位の数のからゆきさんがいたそうです。灯台のような形をした塔の周囲を玉垣がかこっていますが、その銘にはラングン・ハイホン・ツウラン・マンデレイ・バンコクといった地名と女性の名が読み取れました。男性の名もありますが、出稼ぎあるいは女衒・ブローカーだったのかもしれません。ただここに名が刻まれている女性たちは、蓄財することができた一部の人たちなのでしょう。その背後に、困窮のうちに異郷で果てた多くの女性たちがいたことと想像します。騙されたのか、やむにやまれなかったのか、自ら望んだのか、様々なケースがあったかと思いますが、多くの女性たちが強くもっていたであろう望郷の念に押し潰されそうです。となりには「痛魂」という碑があり、次のような碑文が刻んでありました。「ああ、紅怨の娘子軍/海を渡ったからゆきたちよ/アジアに果てた慰安婦たちよ/塔のある聖地に/来りて安らえ/合掌/山田盟子」
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2008-03-13 07:46 | 九州 | Comments(2)