2010年 02月 27日 ( 1 )

「ヤクザと日本」

 「ヤクザと日本 -近代の無頼」(宮崎学 ちくま新書702)読了。竹田青嗣氏の「人間の未来」(ちくま新書765)を読んで以来、"近代"を見る眼が変わりました。氏が考える近代社会の理念とは、社会から暴力原理を完全に排除し、人間が相互に他者を自由かつ尊厳ある存在、完全に対等な権限者として認めあった上で、一定のルールに則ってフェアなゲームを行なう、というものです。よってわれわれはポスト・モダンどころか、"近代"のとば口にも至っていないということですね。この理念との乖離という視点から日本の近代化を見つめなおし、その特徴を考える必要があるなあと思っていた矢先に出会ったのが本書です。著者の宮崎氏曰く「近代ヤクザの歴史を、近代化の過程と関連づけて解明していけば、そこには日本型近代化の深層が、その知られざる一端をあらわしてくるにちがいないのだ」(p.235)、ヤクザから見た日本の近代史、これは興味津々です。

 明治維新後、きわめて急速に中央集権的な近代国民国家が形成されていきましたが、その一方で国家による暴力の独占と法の支配が確立していない領域が広大に存在しつづけることになります。中でも産業の発展に不可欠な炭鉱、水運、港湾に関連した地域は急速に膨張し、腕一本の流れ者や荒くれ者が蝟集した結果、警察権力だけでは手に負えないほど治安が悪化します。ここに暴力と「顔」とネットワークで自治秩序を維持する民間暴力装置、つまり近代ヤクザが登場することになります。と同時に、有力者に無力な者が追随して、全人的/全家族的奉仕を行うことによりある程度の生活保障を得るという利害共同集団(親分・子分関係)が形成されていき、下層労働力の統括者としての顔も持つようになりました。表向きは欧米の近代的な制度を導入しながらも、こうした暴力に満ち、法の支配が及ばず、個人の自由や権利が認められない領域、言わば前近代的な世界が列島のあちらこちらに点在していたのでしょう。そして急いで工業化を推し進め欧米列強にキャッチアップしたい政府は、こうしたいつでも使い捨てられる安価な労働力を供給してくれる前近代的領域を残存させ活用することが何よりも有効だと判断しました。となると、そうした領域を束ね、仕切る近代ヤクザは支配者側にとって必要不可欠の存在となります。周知のように、近代日本における工業は、大企業と、それを支える膨大な中小零細企業・個人事業者という二重構造が特徴です。上層構造である大企業は、経済発展の牽引車として官主導によって競争から保護される、つまり政府が束ね、仕切る。そしてそれを支える下層構造、中でも労働集約的で不熟練型の労働集団が蝟集する炭鉱・土建・港湾などの産業は、ヤクザが束ね、仕切る。政府と民間暴力装置の見事な二人三脚の出来上がり! しかし見落としてならないのは、そうした部分社会を仕切る社会的権力としてのヤクザが、下層社会が危機に陥って動揺にさらされて国家権力と対抗しなければならない際に、その中核となったことだ、と著者は指摘されています。具体的な事例として米騒動(1918)をあげられていますが、このあたりはもっと多くの事例と詳しい分析がほしいなと感じました。氏自ら、「彼らが民衆の味方にならず、もっぱら資本家、地主階級ないし権力の手先に組織されるのは、米騒動の後にできた原内閣のもとで、床次竹二郎内相が『国粋会』を組織し、全国の侠客を糾合しはじめてから後のことである」(p.180)と述べられているように、国家権力に対抗する面よりも癒着する面のほうが強かったのではないのでしょうか。そして近代ヤクザは高度経済成長期において大きく変質し、共通感情によって結びついた地域・職域の共同体とともに生きてきた「共同社会型ヤクザ」から、もっぱら利害関係にもとづく機能的な結びつきによって成り立っている利益社会に生きる「利益社会型ヤクザ」へて変質していった、と結ばれています。(p.205)

 うーむ、なるほど。日本型近代化の深層、知られざる一端がよくわかりました。法・ルールの支配が及ばず、個人の自由・権利が全うしていない部分社会を、ヤクザを介して仕切り、産業の発展や治安の維持を実現してきたのですね。こうした側面を捨象しない、地に足の着いた泥まみれの歴史叙述を研究者諸氏には期待します。そうしないと、今の日本社会が抱えるさまざまな問題点も見えてこないのではないかな。フェアなルールが機能せず、有力者と無力な者が全人的奉仕と生活保障という親分・子分関係で結びつき、有力者がふるう非公式な"暴力"に満ち溢れた部分社会がいまだにこの列島の各地に点在しているような気がします。そして、格差社会へと変貌し、グローバル恐慌に陥り、部分社会が「生活保障」という機能を失い、崩壊しつつあるのが現状ではないでしょうか。個人を守るルールも、部分社会も存在しない状況となった日本…

 なお著者は、この部分社会における相互扶助というプラス面を評価し、下記のように述べられています。
 台湾では幇(パン)が健在である。それは、台湾の民衆社会が健全だということだ。台湾は特にそうだが、台湾にかぎらず、アジアでは、どこでも民衆の相互扶助組織としてのヤクザ的結社が生き生きと活動しており、民衆といい関係を結んでいる。…そういう結社が広く活動できるのは、民衆の間に日本のような国家と民主主義に対する幻想がなくて、部分社会の相互扶助が生きているからである。自治が息づいているからなのだ。
 日本も、台湾とはちがったかたちではあるが、大きく擡頭してきた中国とインドの圧力によって激動しているアジアの状況、始まっているアジア世界の再編のなかで、官僚主義に凝り固まった国家機構や国境を超えて利潤を貪ることに専心している巨大企業に頼らず、一人ひとりの日本人がどう生き抜いていくのかが問われようとしているのではないか。そうしたとき、日本でも、そういう下からの相互扶助の核となる新しい「組」的団結、日本版幇が必要とされているのではないか。そういうものとして、超近代の無頼よ、出でよ。(p.263)
 たしかに相互扶助と自治の核となる新しい「組」的団結-コミュニティと言ってもいいのでしょうか-の必要性は大いに感じます。ただし国家権力に利用されたりその走狗・爪牙となったりしないという条件をつけましょう。これはこれで大きな課題ですが、それ以上に重要なのが世界規模でフェアなルールを設定してマネー・グローバル企業・国家権力の暴走をくいとめ、個人の自由や権利や尊厳を守るということだと思います。ボスが牛耳る番外地的「組」ではなく、地球大での公正なルールにのっとったかたちで人間を守る「組」、見果てぬ夢かもしれませんがぜひ実現させたいものです。

 追記。戦前、軍港・横須賀では、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、その仲仕を仕切ったのが小泉由兵衛ひきいる小泉組だったそうです。その孫が純一郎、そう、小泉純一郎元軍曹。なるほど、有形無形の暴力に満ち、法の支配が及ばず、個人の自由や権利が認められないこの国を仕切ったあのパフォーマンスは、祖父ゆずりなのか。
by sabasaba13 | 2010-02-27 07:18 | | Comments(0)