2011年 05月 21日 ( 1 )

「海も暮れきる」

 「海も暮れきる」(吉村昭 講談社文庫)読了。以前、拙ブログに「尾崎放哉句集」(池内紀編 岩波文庫)の書評を上梓しましたが、彼の生涯について再記します。
尾崎放哉(ほうさい)(1885‐1926)、俳人。鳥取県吉方町に生まれる。1902(明治35)年に第一高等学校入学し、荻原井泉水のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。25年夏、小豆島の西光寺奥の院の南郷庵に入り独居無言、句作三昧の境に入ったが一年足らずで病没。
 そのしみじみとした寂寥感にあふれる自由律俳句は、俗塵が積り錆びついた私の心の琴線を微かに震わせます。敬愛する吉村昭氏が、放哉の最晩年を描いたと知り、一も二も三もなく飛びついた次第です。一読、声も出ませんでした。書評では“淋しさに一人向き合う”と評しましたが、あまりに牧歌的な言い方でした。凄絶…そんな言葉すらも甘く響きます。いったんはエリートコースを歩みながらも、酒癖(酔うと目がすわり、辛辣な皮肉・嫌味を相手にあびせかける)によって職を辞めざるをえなくなり、美しい妻に別れをつげ、流浪を重ねた放哉。俳人仲間や周囲の好意で、小豆島の南郷庵の寺守りという安住の地に辿り着きました。彼を世話した宥玄という僧侶は何気なくこう語ります。
 外見上、世を捨てたとみえても、かれらが世捨て人とは思いませぬ。よくて半捨て、中には自ら捨てたと思いこむことによって世間に甘え自らに甘えている者もいる。大半の者がそうだと言っていいと思います。(p.62)
 その言は暗に放哉のことをさしているかのようです。禁酒を誓うもたびたび破り、島人にからむ酒乱ぶりはかわりません。酔いが醒めると深甚に反省するのですが、また酒に手をだしてしまいます。貧窮のどん底にありながらも、屈指の俳人であるという強烈な自負をもち、周囲の人々や後輩の俳人が自分に尽くすのは当然だとして金銭や酒をたかる日々。同時に、人の情けにすがらなければ一日も生きていけない己の情けなさに、心苛まれる日々。その救いようもない日常を、感情移入をせず克明に冷徹に描く吉村氏の筆の冴え。やがて結核という病魔が彼の体を容赦なく蝕んでいきます。それとともに、夾雑物がとりはらわれたかのように、彼の句は冴えを増していきます。
 かれは、着物の裾を開き、股の間に体温計をさしこんでみた。が、腿も骨が浮き出ていて両股に力を入れてみても、体温計の先端がふとんの上に脱け落ちてしまった。かれは、疲れきって検温をあきらめた。体が痩せこけて体温計すらはさめぬようになっていることに、暗い気持ちになった。体重をはかるすべはないが、もしかすると九貫匁(※約33.8kg)程度しかないのかも知れなかった。(p.199)

放哉は、句をまとめて俳誌「層雲」に送ることを繰返していたが、自分の気持が冴えた形で表出されるようになっているのを感じていた。病勢が悪化してゆくのに、句が生色を増してゆく。自分の内部から雑なものがそぎ落されているような気がした。

咳をしても一人
なんと丸い月が出たよ窓
くるりと剃つてしまつた寒ん空
庵の障子あけて小ざかな買つてる
松かさそつくり火になつた
昔は海であつたと榾をくべる
とつぷり暮れて足を洗つて居る
墓のうらに廻る
赤ん坊ヒトばんで死んでしまつた (p.177)
 そして「春の山のうしろから烟が出だした」という句と、「海が見たい」という言葉を残して、知人の漁師抱かれながら彼岸へと旅立っていきます。

 あとがきによると、著者の吉村氏も、終戦後に学習院旧制高等科に入学した直後、結核のため八カ月病床に伏せたそうです。眼に負担をかけぬため俳句に、やがて放哉の句のみに親しむようになりました。同じ結核患者であったという親近感と、それらの句が己の内部に深くしみ入ってくるのを感じたからだと述懐されています。いつか放哉についての小説を書きたいと思いつつも、死への激しい恐れとそれによって生じる乱れた言動を理解するには、彼より年長にならなければ無理だと筆を抑え、書き上げたのが齢五十三歳。かつて自分が経験した闘病生活と、放哉の最晩年の日々が同調したかのような、見事な作品でした。救いようもない乱れた言動をくりかえす放哉を、一抹のあたたかさとともに端正な筆致で描いた珠玉の逸品、お薦めです。
by sabasaba13 | 2011-05-21 21:03 | | Comments(0)