2017年 02月 03日 ( 1 )

虐殺行脚 千葉編(8):馬込霊園(16.9)

 裏面の碑文はハングルによる記載のため、浅学な小生では判読できません。しかし「虐殺」「煽動教唆」「蠻行」といった漢字表記から推測するに、被害者の立場から事件の真相を記録しようとする姿勢がうかがわれます。碑を建立したのは在日朝鮮人連盟中央本部で、もともと船橋市本町にありましたが、1963年に現在の位置に移設されました。なお在日朝鮮人連盟(朝連)とは、1945(昭和20)年8月15日の解放直後から、在日朝鮮人の故国への帰国を援助し、生活権を守るために各地に多数つくられた自主的な団体が結集した組織です。碑文によると、中央総本部委員長・尹槿筆の名前で1947年3月1日に建立されています。1919(大正8)年、三・一運動が起きた日ですね。この当時の朝鮮はどのような状況であったのか、姜尚中氏が『戦争の世紀を超えて』(姜尚中・森達也 集英社文庫)の中で、的確にまとめられているので紹介します。これは責任の一端を負う者として、われわれ日本人が知らなくてはいけない歴史だと思います。
 一方、朝鮮半島はどうだったのか。金日成がスターリンの事実上の黙約のもとに武力南進を始めるのですが、その前の48年の段階で、南は単独選挙によって李承晩が大統領に選ばれています。が、その単独選挙もアメリカの介入によるものでした。
 朝鮮半島については、カイロ宣言で、朝鮮半島の奴隷状態にかんがみてという文言が入っているんです。ですから連合国は、奴隷状態にあるこの半島をどうするかについてカイロ宣言で話し合った。ルーズベルトは、つまり、アメリカは朝鮮半島についてほとんど知らなかったんですね。ただ間違いなく地続きであるソビエトの影響力が将来大きくなるだろうと考えていた。それをどうするかということで、アメリカが単独でソビエトの影響力を抑制するよりは、共同統治を選んだ。信託統治にして、連合国が共同で管理し、自発的は政府と議会を作ろうという、そういう段取りです。
 ところが、これをめぐって紛糾する。ソビエトはアメリカに北海道分割統治案を完全にけられてしまいますが、しかしヨーロッパのほうでは、後にワルシャワ条約機構をはじめとする勢力圏があって、かなり意見が通るわけですよね。だから朝鮮半島は連合国にとって、ある種のブラインドスポット(盲点)だったと思うんです。彼らにとって一番重要なところはやっぱりヨーロッパだった。ヨーロッパの中での米ソの位置づけが、何より大事なテーマだった。そのときアメリカは、朝鮮半島でのソビエトの影響力を可能な限り相対化したいがために、結局信託統治案に持っていく。けれど、いろいろな思惑が錯綜して信託統治の最終案がなかなか決まらないんです。
 そうこうしている間に朝鮮半島の内部は、右と左を包摂した統一戦線を作ろうという動きがあり、これが後の朝鮮人民共和国となる。呂運亨(ヨウンヒョン)らが中心になって、李承晩から金日成まで入れて、それで受け皿を作ろうとしたわけです。そのとき敗戦間際の日本の朝鮮総督府は、最終的に朝鮮半島はソビエトの統治下に入るだろうと思っていましたが、アメリカが仁川に上陸するというのがわかって、対応を変えた。日本側はすぐにアメリカ側と交渉を持った結果、朝鮮半島について何も知らないアメリカが、既存の植民地時代の統治機構を利用して朝鮮半島を管理することになったんです。しかも軍政支配です。ですから、朝鮮半島の解放直後の事態というのは、日本、ソビエト、アメリカ、そして朝鮮半島内部の確執がほんとうに入り組んで、非常に混乱した状況だった。(p.243~4)
 震災時の虐殺についての究明を怠り、責任も取らずに忘却の淵に沈め、そして解放後の在日朝鮮人に対しても放置したままの日本に対する怒りと批判がこめられているのかもしれません。そして苦難の歴史をふりかえりながら、祖国の再建に全力を尽くそうという決意も感じられました。

 なお最近読んだ『ドキュメント 在日本朝鮮人連盟』(呉圭祥 岩波書店)の中に、下記の一文がありました。この碑を建立する前年に追悼大会が開かれていたのですね。なにか関連があるかもしれません、ご教示を乞う。
 日本と朝鮮の民主主義団体は、関東大震災犠牲者追悼大会を1946年9月1日に宮城前広場で共同で開催している。ここでは司会を朝連南浩栄、議長、副議長を日本人で構成して、自由法曹団布施辰治、中国から帰国した鹿地亘、日本共産党野坂参三、日本協同組合戸沢仁三郎、自治同盟入江汎、社会党代議士山花秀雄などが二度とこのような不幸な出来事が起きないようにと力説している(「解放新聞」 1946.9.10)。(p.88~9)
 もう一言。その大会に、自由法曹団の布施辰治が加わっているのを知り、感無量。私の尊敬する人権派の弁護士です。と書いたのですが「人権派弁護士」という言葉があること自体が、日本法曹界の退嬰を物語っていますね。人権のために闘わない弁護士の方が多いということなのでしょう。情けない。それはさておき、『日本の歴史14 「いのち」と帝国日本』(小松裕 小学館)にこうあります。
 布施は、1920年5月に「自己革命」宣言を行ない、社会運動の闘士として、法廷よりも社会で活動することを宣言すると同時に、法廷で取り扱う事件も、官憲に無実の罪を押しつけられた冤罪事件、弾圧と闘う無産階級の事件、人間差別と闘う事件、朝鮮人・中国人の利益のために闘う事件などの六項目に限ることを誓っていた。
 朝鮮人虐殺事件に関して、布施が所属する自由法曹団は真相調査を行なうことを決定し、〈少なくとも六七千の問題数が残る〉と犠牲者の数を推定している。そして、布施は〈×(殺)されたものの霊を吊うの前に先ず×(殺)したものを憎まねばならぬ、呪わねばならぬ、そしてその責任を問うべきである〉と激しく批判した。さらに、朴烈・金子文子大逆事件の弁護を買って出て、二人は朝鮮人虐殺事件の「弁疏」のために検挙されたと指摘した。(p.315)
 そう、大震災時の虐殺事件に際して、真相解明に尽力し、朝鮮人のための裁判活動を行なった稀有なる方です。敗戦後も、朝鮮人のために協力を惜しまなかったのですね。さすがです。

 本日の一枚です。
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 追記。『いわれなく殺された人びと 関東大震災と朝鮮人』(千葉県における追悼・調査実行委員会編 青木書店)を読んでいたら、碑文の訳がありましったので引用します。

関東大震災犠牲同胞慰霊碑 碑文
 西紀一九二三年九月、日本、関東地方大震災時に軍閥官僚は、混乱中、罹災呻吟する人民大衆の暴動化を憂慮し、自己の階級に対する憎悪の感情を進歩的人民解放の指導者と少数異民族に転嫁させ、これを抑圧、抹殺することによって、軍部独裁を確立しようと陰謀した。当時山本軍閥内閣は、戒厳令を施行し、社会主義者と朝鮮人たちが共謀して暴動を計画中であるとの無根なる言辞で、在郷軍人と愚民を煽動、教唆し、社会主義者とわれわれ同胞を虐殺するようにした。在留同胞中で此凶変蛮行による被殺者は六三〇〇余命を算え、負傷者数万に達した、この犠牲者同胞の怨恨は、実に千秋不滅であろう。しかし、解放された我々は、世界の民主勢力と提携し、海内、海外の国粋的軍国主義の反動残滓勢力を撲滅し、真正な民主朝鮮を建設し、世界平和を維持することによって、宿怨を雪辱するよう積極的に闘争することを盟誓し、犠牲諸霊を慰労するために、ここに小碑を建立する。
在日朝鮮人連盟中央総本部 委員長 伊槿 撰
(一九四七年三・一革命記念日竣成) 船橋市馬込霊園 (p.169)
by sabasaba13 | 2017-02-03 06:20 | 関東 | Comments(0)