2017年 02月 07日 ( 1 )

虐殺行脚 千葉編(10):高津観音寺(16.9)

 そしてやってきたバスに乗り込み、十数分で「高津石橋」バス停に着きました。観音寺はすこしわかりづらいところにあり、前もって調べて印刷した地図を持参して正解でした。車道から奥まったところにあるお寺さんで、入口にある駐車場のすぐ先に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」「関東大震災韓国人犠牲者慰霊詩塔」と朝鮮風の鐘楼がありました。
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合掌

 それではここで何が起きたのか。前記の幸い、田中正敬氏による「関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状」からふたたび引用します。
 一方、習志野の軍隊の命令により朝鮮人を虐殺した村の一つである高津では、震災から四〇年前後を経過した頃から古老二人が六人の犠牲者が眠る地に塔婆を立てるようになった。また、高津の近くの大和田新田では一九七二年に「無縁仏之墓」が建てられた。外部の人間には知られない「有志」により行なわれた追悼は、その追悼者が亡くなることにより、追悼はおろかその「記憶」についてもいずれ忘れ去られる可能性を持っていた。船橋の虐殺事件については一九六三年に日朝協会が調査を行ない、また地域での研究も続けられていたが、本格的な調査が始まったのは、一九七四年の千葉県歴史教育者協議会の集会で行なわれた「関東大震災時の朝鮮人虐殺について」という報告がきっかけであった。報告者の高橋益雄氏は、馬込霊園の追悼式に参列し、一九六三年の調査にも参加してきた。その後、高橋氏の問題提起を受けた高校教員などの地域の人々の取り組みにより、調査が進められていった。他方、習志野市や八千代市でも中学校教員が中学校の「郷土史研究会」というクラブの学生たちと一緒に地域の歴史を調査する過程で地域の虐殺の事実を知り、一九七六年から虐殺の目撃者に対する聞き取りを行なった。この調査にも多くの人々が主体的に関わった。一九七八年には高橋益雄氏を実行委員長として「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼 調査実行委員会」が発足し、自治体職員や主婦、市会議員など様々な人々が集まり、さらに調査を進めていった。収容所に勤務していた元軍人や虐殺事件を起こした地域の住民は、実行委員会の粘り強い交渉もあって事件についての証言や資料の提供に応ずるようになった。こうして、前述のような事件の実態を明らかにした実行委員会は、一九八三年に『いわれなく殺された人びと』を刊行してその成果を活字にする一方、同年、高津の地域住民と共同で追悼行事を行なうようにもなった。高津での朝鮮人虐殺が具体的に明らかになったのは、高津の住民が実行委員会に日記を提供した ためである。当時の住民の日記の震災関連部分は次のとおりである。

 一日西区のA方で将棋をやる。正午大地震起る。何回となく続いて来る。午后二時頃帰宅、 豚が子を産で居たので見てやる。変りなし。昼飯を食って又Aへ行って将棋をやる。…三日…夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。在郷軍人団青年団やる。 四日村中集会両区の要処ゝゝ警戒線を張り区内の安全を期すべく決定、鉄砲刀何れも武器持参なり。 七日…皆疲れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃、バラック(収容所―引用者註)から鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有ったとて急に集合させ、主望者(ママ)に受取りに行って貰う事にした。…夜中に鮮人十五人貰い各区に配当し(中略)と共同して三人引受、お寺の庭に置き番をして居る。八日…又鮮人を貰ひに行く。九時頃に至り二人貰って来る。都合五人(中略)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。(中略)穴の中に入れて埋めて仕舞ふ。皆疲れたらしく皆其処此処に寝て居る。夜になると又各持場の警戒線に付く。九日…夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人一人貰って来たと知らせ有る。之は直に前の側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りで、切る。(『いわれなく殺された人びと』より 一部抜粋)

 九月一日の記述では比較的被害が少なく牧歌的な雰囲気があったと思われる村が、三日の役場からの通知以後に一挙に緊張が高まっていく様子がわかる。七日に朝鮮人を渡された住民はこれを各地区に「配当」し、高津では二日にわたり六人が虐殺された。軍隊が村に指示しなかったならば、住民が加害者になることはなかったであろう。
 日記に書かれた事件が事実であったことは、一九九八年の発掘で六体の遺骨が出てきたことにより証明された。翌年、地域住民、観音寺、そして実行委員会は共同で高津観音寺に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」を建立して遺骨を安置し、犠牲者を弔った。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-02-07 06:37 | 関東 | Comments(0)