2017年 03月 07日 ( 1 )

少女像5

 さて、私たちはこの問題に対して、どう向き合えばよいのでしょうか。もちろん一朝一夕に解決できる容易な問題ではないことは、重々承知しています。私も意見もまとまりません。ただ、逃げるのを、隠すのを、忘れるのをやめて、知り、考え、議論をすべきだとは思います。

 最期に、その際に導きの糸になる文章をふたつ紹介して、筆を置きます。

 まずは『普遍の再生』(井上達夫 岩波書店)で紹介されていた、戦争責任問題に関する研究と政治的運動実践に長年従事してきた大沼保昭氏の言葉です。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号) (p.68~9)
 もうひとつは、加藤周一氏の随筆「春秋無義戦」の最後の部分です。(『夕日妄語2』 ちくま文庫)
 問題は、いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観-もしそれを文化とよぶとすれば、いくさや犯罪と密接に係りあった文化の一面との断絶がどの程度か、ということである。文化のそういう面が今日まで連続して生きているとすれば、-今日の日本においてそれは著しいと私は考えるが、-そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない今日の問題である。
 過去の犯罪の現存する条件を容認して、犯罪との無関係を主張することはできない。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決をしないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうとしないかぎり。
 たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別-そういうことと無関係に日本帝国主義は成立したのではなかった。また過去の日本帝国主義に対する今日の日本国の態度と無関係に、自衛隊員の海外活動に対するアジア諸国民の反撥と不信感があるのではない。
 自衛隊の海外活動第一年、一九九二年の暮に私の妄想はこの国の来し方行く末に及ぶのである。(92.12.17) (p.68)

by sabasaba13 | 2017-03-07 14:11 | 鶏肋 | Comments(0)