2017年 03月 14日 ( 1 )

『高木仁三郎セレクション』

 政府は、福島原発事故による避難地域の指定をせっせと解除しています。事故原因の究明も進まず、その収束の見通しもつかず、放射性廃棄物の対策もたてられず、放射能はだだ漏れし、原発事故避難者に対するいじめが蔓延し、被害者への補償が打ち切られるといった暗澹たる状況が続いているのに。ハロルド・ピンター氏が言ったように、『何も起こりはしなかった』ことにしたいのでしょう。政治家・官僚は権力を保持するために、自らの生命に関わる真実についてさえ無知である状態に大衆をとどめようと、さらに言葉を操ることによって、事実や真実を覆い隠す。こうした凄惨な事故を引き起こした方々、東京電力、自民党、関係省庁の官僚、原発利権にたかってきた学者やメディアは万死に値するはずです、死刑制度には反対ですが。しかしまともに責任を取ろうとせず、あろうことか再稼働と原発輸出に血道をあげている始末。そして無関心が夜の闇のように、私たちを包み込んで眠らせようとしています。

 こういう状況であるからこそ、原子力発電に反対し、市民の側に立った発言と行動を続けた科学者・故高木仁三郎氏の謦咳に接したいと考え、『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編 岩波現代文庫)を読みました。裏表紙の紹介文を転記します。
 生涯をかけて原発問題に取り組み、最期は原子力時代の末期症状による大事故の危険と、放射性廃棄物がたれ流しになっていく恐れを危惧しつつ2000年にガンで逝去した市民科学者・高木仁三郎。3・11を経てその生き方と思想と業績にますます注目が集まっている。厖大な著作のなかから若い人に読み継がれてほしい二十二篇を精選した文庫オリジナル編集版。
 静謐にして論理的な叙述、エコロジーという観点からの根本的な批判、そして市井の人びとが安心して暮らせるために科学者はどうあるべきかを常に考える姿勢。今なお、多くのことを教示してくれます。いくつかを引用します。
 今度の連続講座をやって、改めて20世紀というのは、つくづく戦争の時代だったなと思うのです。第一次、第二次世界大戦があって、その戦争によって科学技術が発達した。そして、そのカッコ付きの平和利用というか、商業利用、民事利用によって戦後世界は発展してきたのだけれども、それが、いまドサッと問題を出してきた。
 原子力はもちろんそうだし、環境ホルモンもそうだし、ダイオキシンなんかは典型的です。アルミニウムも、いま議論があるところですが、少なくとも危険因子として、やめたほうがいいという話になっています。軽くて固いといったことで、アルミニウムとその合金が使われだすのは、圧倒的に第二次世界大戦の戦闘機その他軍需からなのです。その他の化学物質も、第一次、第二次世界大戦の、戦争のためのいろいろな需要です。その技術の基本原理は殺りく・破壊と競争です。非常に効率よく人を殺せたり、大量に破壊できたり、攻撃に強かったり、攻撃しやすかったりという、強さとか速さとかが、技術の価値の基準になっていた。軍事技術ですから、もちろん安全は二の次だし、あとのゴミをどうしようなんていうことは考えてもみなかった。基本的に刹那主義です。しかも、人間を個としてではなく、マスとして対象としているから、個人に対しては抑圧的・反人権的になる。(p.35~7)

 その背景には、一度決めた計画の非は認めたがらないという官僚機構の問題や、すでに多くの投資をし多くの技術者を抱えている原子力産業の慣性や結んでしまっている商契約による拘束というようなことが絡んでいよう。(p.121~2)

 しかし、これは実験のやりようがないんですね。原子力発電の事故の実験なんてできないわけですから。われわれの常識からいって、普通の実験科学者-私は実験科学者ですが-実験科学者の常識からいうと、実験というのはせめてデータを数十例とりたいですね。たとえば、こういう条件だったら放射能はアウト、完全に漏れちゃった、こういう条件だったら漏れなかった、そういうのをそれぞれ何点もとってみて、こういう条件だったらこの装置はうまく動くという条件を決めて、この装置を使う。こういうふうにしたい。ところが一回漏れたら大災害ですからね。だからそんな実験はできない。
 …ですから、いままでの実証科学という概念が崩れてしまう。完全に。(p.236~8)

 しかし、科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。(p.261)

 核エネルギーは、したがって、どんなに平和的にみえる民生利用の場面においても、常に、大量殺りく技術としての牙をむき出しにする可能性を秘めており、この技術の利用は常に緊張のもとに置かれざるをえない。そのため、その利用の推進は、中央集権的な管理体制のもとで、厳重に情報や施設への市民の接近を制限しながら行われることになる。
 かくして、一見非政治的にみえる核エネルギーの推進も、強大な政治権力を背景にしてのみ可能となるという意味において、市民生活に対して政治的支配力をもってしまうのである。そして、むしろその支配力が政治権力にとって魅力となっているとさえ思われる。日本も含めて原子力を推進するほとんどの国々において、実際には核エネルギーがその国の一次エネルギー生産のうちに占める比率は10パーセント以下であるにもかかわらず、このエネルギーの開発に、予算・人材など最大限の精力を傾注し、また、民主主義の原則を否定するような情報の非公開性に各国政府がかくも鈍感でいられるのも、右に述べたこのエネルギーの支配力の魅力の故ではないだろうか。(p.331~2)

 核テクノロジーと人間社会との間に存在する上述のような本質的な非和解性は、さまざまな困難となって現れるが、そのしわ寄せは必ず、もっとも底辺的なあるいは辺境的な人々や社会に押しつけられてくる。これが、核の生み出す差別である。(p.357)
 権力や利潤のためではなく、市民の安心のために貢献する科学技術の必要性。市民と不安を共有し、市民とともに働くという科学者の責務。生涯をかけて、それらを追い求めたその志の高さには感銘を受けます。原子力産業で権益を手にしている方々の燃料となる無関心、無力感、知的・倫理的怠惰を払拭して、彼の跡を継ぐような市民科学者と共に歩んでいきたいと思います。

 追記。最後の解説で、編者の佐高信氏がこう書いておられます。
 高木の一生は、まさに国から民間にパブリックを取り戻す闘いに終始した。
それを恐れたから、国策として原発を推進する有象無象が高木を脅かしたのである。『週刊現代』の2011年5月21日号で、パートナーの高木久仁子がこう言っている。
「嫌がらせはいろいろありました。注文してもいない品物が自宅に届けられたりするのはしょっちゅう。散歩途中に車に轢かれそうになったことも一度や二度ではありません。自宅の前には不審な人物がいつも張り付いていて、講演に出掛けると、一緒に電車に乗ってくる。いちいち驚いていられないほどです。こちらは常に緊張していたけれど、彼は淡々としていましたね」 (p.373)
 嘔吐を催すぐらい卑劣な連中とシステムですね。ここまでして守らなければならないというところに、原子力発電のいかがわしがよくあらわれています。それにしても、反原発運動にさまざまな妨害・いじめ・嫌がらせを行なっている"有象無象"の正体および実名をぜひ知りたいところです。ま、だいたい想像はつきますが。

 追記その二。毎日新聞(17.3.13)によると、東京都内で11日にあった東日本大震災の政府主催の追悼式で安倍晋三伍長が「原発事故」の文言を式辞で使わなかったそうです。福島県の内堀雅雄知事は13日の定例記者会見で、「県民感覚として違和感を覚える。原発事故、原子力災害という重い言葉、大事な言葉は欠かすことができない」と批判したそうな。やっぱりね、何も起こりはしなかった、か。
by sabasaba13 | 2017-03-14 06:34 | | Comments(0)