2017年 03月 15日 ( 1 )

『沈黙』

c0051620_6242871.jpg マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作の『沈黙』を映画化したという新聞広告を見て、これはぜひ見に行こうと決意。お恥ずかしい話、スコセッシ監督の作品は見たことがありませんが、その御高名はよく耳にします。その名監督が遠藤周作の名作『沈黙』をとりあげるのですから、期待に胸は弾みます。
 とある日曜日、山ノ神とユナイテッドシネマとしまえんへ参上。ほぼ席は埋まっており、こうした真摯な映画を見られる方がこれだけいるのかと安心しました。食指のまったく動かない予告編をさんざっぱら見せられたあと、ようやく上映開始です。公式サイトから、ストーリーを転記します。
 17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教(信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
 日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた"隠れキリシタン"と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―
 守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―
 なお余計なお世話ですが、その時代背景について関連の書籍から引用します。
『世界史のなかの戦国日本』(村井章介 ちくま学芸文庫)
 また、伝来以来半世紀のあいだに、おもに九州地方や畿内で急激に信者を拡大したキリスト教は、つぎの二点において、統一権力にとって危険な存在となりつつあった。
 第一に、信者たちが「日本的華夷観念」をはるかに超越した「デウス」に、死後をもふくめた精神のよりどころを得たことである。それが中世的な「一揆」の伝統と結びつくことにより、幕藩体制的な領主支配を拒否するてごわい抵抗の論理となったことは、1637~38年の島原・天草一揆に示されている。
 第二に、イベリア両国のカトリックと植民勢力の合体による、日本の「インディアス化」の危険性である。肥前大村領内では、全領民のキリシタン化を望む純忠の政策により、万単位での改宗者があいつぎ、ついに1580年、純忠は長崎と茂木を教会領に寄進するにいたった。これを受けてイエズス会は、ポルトガル人を中心に両地を要塞化し、87年豊臣秀吉が最初のキリシタン禁令を発すると、キリシタン大名に軍事援助を行なって秀吉への武力抵抗を組織することをもくろんだ。
 秀吉や家康は、布教を貿易から切りはなして禁止することを考えていたが、イベリア両国の世界進出が両者を車の両輪として行なわれた以上、それは不可能であった。けっきょく徳川幕府は、キリシタン禁止を旗じるしに、1630年代までに、対外交通の国家による徹底した管理体制(いわゆる鎖国体制)を築くと同時に、在地の郷村にキリシタンがいないことを証明させる「宗門人別改」を通じて、17世紀なかばまでに、戸籍制度に相当する領民把握のシステムを創出した。(p.221~2)

『天皇の世紀』(大佛次郎 文春文庫)
 江戸時代を通じて長い年月の間、日本に於ける切支丹宗門の絶滅を政府が方針としたのは、島原の乱のような大規模な農民の一揆が以前にあって、その再発を現実に恐れた故もある。幕府を中心とした封建体制を維持する上に、異国の勢力が国内に入るのを排斥した鎖国政策と並んで、切支丹を絶対に国内に入れまいとしたので、これが幕府という大建造物の大切な土台石となる方針なのを信じて採ったことである。鎖国に依って外国人の入国を拒絶したところで、切支丹信仰という西からの勢力が国内に浸潤するのを許して置いては、幕府の体制が知らぬ間に危うくなる。
 切支丹に迫害を加えたのは、鎖国が発令される以前からであった。為政者は切支丹の絶滅を期待した。代々それこそ極度で、周到なものであった。一人なりとも、生かしておかぬ方針だったとも言える。いつの世にも人間の弱いところで役人たちは地位の安全を計って上からの命令を極限まで持って行った。手柄を立て他人の犠牲の上に自己の利益を打算した。刑罰は手段を尽して惨虐なものに化した。隠れている信者への見せしめと考えた。(第11巻 p.14)
 冒頭から息を呑むような緊迫した場面の連続です。見つかったら命にかかわる密入国と潜行、隠れキリシタンの村人たちとの交流、彼らに対する凄惨な迫害、殉教と棄教に揺れるキリシタンたち、そして杳として分からぬ師の行方。まだ生きているのか、殺されたのか、まさかキリスト教を棄てたのか。彼らの不安と苛立ちがひしひしと迫ってきます。そしてとうとう捕えられたロドリゴに対して、長崎奉行の井上筑後守は棄教を迫ります。しかも彼を拷問にかけるのではなく、彼の面前で日本人の信者たちを拷問にかけることによって。彼が信仰を守り抜けば信者は苦しみの末に殺される、彼が信仰を棄てれば信者の命は助かる。苦悩するロドリゴ、拷問にさらされ塗炭の苦痛に喘ぐ信者たち、しかし神は黙っています。

 たいへん重いテーマです。人々の苦しみに対してなぜ神は沈黙しているのか。この当時も、そして今も、日本や世界各地で苦しむ人々を、神はなぜ放置しているのか。スコセッシ監督は答えを出していません。答えではなく問いかけを、私たちにつきつけています。いっしょに考えましょう、と。

 たまたま最近読んだ『釜ヶ崎と福音』(岩波現代文庫)のなかで、本田哲郎司祭はこう述べられていました。
 わたしたちは礼拝で、手を合わせ、心を澄ませて、「神さま、あなたが全能であることを信じます。どうか、この人の病気を治してください」と祈るわけですが、それで病気が治るのだったら、医者はいりません。しかし、わたしたちはけっこう本気で、そう信じてしまっているところがあります。祈れば治るはずだ、と。アフリカで飢饉に苦しんでいる人を助けたいと思って、自分は動かずに一所懸命祈って、こう期待する。「神さまは、きっと飢えている人たちに食物を送ってくださるはず」と。自分が動いて、自分で送らなければ、あるいは仲間たちに声をかけ、呼びかけて行動にむすびつけなければ、神の力のはたらく場がないのです。神は、必ず人間をとおしてはたらかれる。これが神のはたらきなのです。
 「では、神など信じず、人間が自助努力をすればいいというのと同じではないのか?」 人間の力には限界があり、弱さもあって、それをのりこえるためには、それ以上の力がいる。そこに神の力がはたらく。神が共にはたらいてくださるという実感、それは自分のささやかな体験の中で見いだしていくしかない。(p.171)
 神は何も語らず何もしない。しかし神はいつも共にいてくれる、そして人間をとおして苦しむ人びとを救う、これが答えのひとつなのかもしれません。

 もうひとつ興味深い…というよりも心胆が寒くなったのは、「日本は沼のような国だ」という台詞です。たぶん信念が根づかずに、立ち枯れてしまう文化風土だということだと思います。信者たちの信念を棄てさせて権力に屈服させる文化。ほんとうに信念を棄てたか否かは問わず、また新たな信念を強要もせず、外見だけでも権力に屈従すれば生存を許される文化。
 そういえば小倉寛太郎氏が、講演のなかで次のように話されていました。
 それでは、労働組合の役目とは何か? まずは労働者の錯覚を正すことにある。その錯覚とは「自分(労働者)はこの企業で働くために生まれてきた/この企業のために生きている」ということである。もう一つは、無能・無責任な経営者を監視すること、経営の在り方についてのお目付役をすること、失敗したら経営者にきちんと責任を取らせること、である。ところが経営者側にとっては、そんなことはさせたくない。そこで経営者側の反撃が始まる。労働組合を丸抱えするか(御用組合化)、分裂させるか(第二組合の結成)である。後者のケースが多いが、そこで経営者が行なうのが組合分裂工作、つまり脅迫と誘惑である。第一組合に残れば「出世をさせない」と脅かし、第二組合に入れば「主任にしよう」と誘惑する。人間は「正しい/正しくない」という行動基準を持つべきだが、しかし人間は弱いものでもある。経営者側の脅迫と誘惑にあい、損得勘定をし、正/不正を考えず、自分の弱さに屈し、第二組合に移ってしまう人が多い。つまり、組合分裂工作とは、人間が自分の弱さに屈することにお墨付きを与える、いいかえれば企業による人間性の破壊である。
 国歌や国旗の強要も、この文脈でとらえられるかもしれません。ほんとうに日本を愛しているのかは問わないし、愛するに値する国であるか否かもどうでもいい。とにかく外見だけでも権力に屈服しろ、と。「正しい/正しくない」という行動基準を立ち枯らせる沼のような国…

 以前におとずれた出津で、「沈黙の碑」に出会いました。本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-15 06:25 | 映画 | Comments(0)