2017年 03月 29日 ( 1 )

虐殺行脚 東京編(17):横網町公園(16.10)

 それでは公園内を見学しましょう。南門から入ると幽冥鐘と鐘楼がありました。解説板を転記します。
 この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
 また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃鐘し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
 その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14(1925)年11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。
 この鐘を安置する鐘楼は、昭和5年(1930)年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。
 王希天をはじめ、多くの中国の方々も虐殺されたというのに… その厚情には感謝するしかありません。
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 そして正面に伊東忠太設計の東京都慰霊堂(震災記念堂)が見えてきます。

 合掌

 右手にある重厚な建物は復興記念館、東京の復興事業を記念するため、東京都慰霊堂の付帯施設として1931(昭和6)年に建てられました。内部に、震災被害資料と東京大空襲による戦災関係資料等を展示してあります。その横の屋外には、関東大震災によって溶解した車両や建造物などが野外展示されています。
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 本日の一枚です。
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 追記。復興記念館を設計したのは伊東忠太と佐野利器(としかた)であることがわかりました。震災後の東京復興に尽力した建築家ですね。最近読んだ『世界史としての関東大震災』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)に、次の一節がありました。
 佐野利器が指導した東京市建築局の復興建築は、病院、卸売市場、区役所、小学校(117校)など多岐にわたった。そのなかで最も重要な意味をもっていたのは、地域のコミュニティの中心として小学校とそれに隣接した小公園をつくり、しかも都市不燃化のシンボル・拠点として鉄筋コンクリート造の立派な建物として小学校を新築したことである。教育局は小学校に水洗便所や暖房は贅沢だといい、また畳を敷いた作法室を設けるよう強く主張した。これに対し、佐野は「水洗便所は小学校内の衛生ということだけでなく、子供を通して市民の衛生思想を高めたい」と譲らなかった。また、作法室についても、「今日は理科教育と公民教育とが一番大切だ。理科教室なら工夫して整備しよう。今はお辞儀の稽古の時代ではない」と。このように、東京の復興小学校のモダンな設計と水洗便所には、佐野の近代合理主義が体現されている(越沢明 『東京の都市計画』 岩波新書、1991年)。(p.118)

by sabasaba13 | 2017-03-29 06:32 | 東京 | Comments(0)