2017年 04月 11日 ( 1 )

焼津編(5):浜通り(17.3)

 それでは自転車にまたがって、浜通りを徘徊しますか。観光案内所でいただいたパンフレットから転記します。
 「浜通り」は駿河湾沿岸に沿って南北に伸びるほぼまっすぐな街道と、その街道を中心に形成された南北約1.5km、東西約0.6kmの細長い集落を指す名称です。浜通りは、北から北浜通、城之腰、鰯ケ島の3地区に分かれています。集落内には、江戸時代かに掘られ、かつては運河としても機能した堀川(黒石川)が北へ流れています。
 焼津漁港築港前は浜通りの砂利浜が河岸(湊)で、古くは廻船業でにぎわいました。徳川家康から船足の早い八丁櫓を許されて以降、カツオ漁業が大きく発展したと伝わります。交通の要所でもあり、江戸時代の地誌には、「漁家商家相交りて繁華なる土地なり、焼津湊云々」(『駿河記』)と当時の繁栄ぶりが記されています。
 その後、明治時代の東海道線焼津駅の開業、静岡での全国初の石油発動機付漁船の開発、漁船建造に必要な有力資本が焼津に成立したことなどにより、浜通りを中核として、焼津は遠洋カツオ漁業の先進地になりました。また、漁業の発展に伴って、鰹節に代表される水産加工業も一大飛躍を遂げました。焼津の名が全国に知られるようになったのは、浜通りで焼津漁業を盛り上げた先人たちの努力によるものといえます。
 明治時代の文豪、小泉八雲はこの地を愛し、夏になると浜通りの山口乙吉宅に泊まり、焼津にまつわる作品を残しました。浜通りが「八雲通り」とも呼ばれる由縁です。
 浜通りには沿岸部特有の伝統的家屋や小路、信仰の場所などが今も残っており、焼津の歴史と文化が息づいています。
 小川港魚河岸食堂からペダルをこぐこと数分で浜通りに着きました。まず目に入ったのが「波除堤防モニュメント」で、高波の害から町を守るために、明治30年代から築造された総延長1,320mの石積み防潮堤の一部を模造したものです。
c0051620_6264478.jpg

 すぐ近くには昭和天皇の巡幸記念碑がありました。昭和5年5月30日ということは、そろそろ昭和恐慌が始まった頃ですね。彼はいったいどんな気持ちでこの地に立っていたのでしょうか。それでは浜通りをゆっくりと走りましょう。残念ながら古い建物はほとんど残っていませんが、正面に山を眺められる気持ちの良い路地です。両側に小路がたくさんありますが、高潮の際に、西の堀川へ水を逃がすための工夫だそうです。土地自体も海側から陸側へと傾斜しているとのこと。それぞれ関係した名前が付けられていて、この写真は御休小路です。
c0051620_627614.jpg

 本日の一枚です。
c0051620_627284.jpg

by sabasaba13 | 2017-04-11 06:28 | 中部 | Comments(0)