2017年 04月 13日 ( 1 )

焼津編(7):浜通り(17.3)

 再び浜通りに戻ると、「小泉八雲滞在の家跡」という記念碑がありました。焼津小泉八雲記念館のHPに、彼が焼津に滞在した経緯や、その様子についての一文があったので引用します。
 小泉八雲とその家族が焼津を最初に訪れたのは1897(明治30)年8月4日のことです。
 水泳が得意だった八雲は、夏休みを海で過ごそうと、家族を連れてよい海岸を探していたのです。
 まず八雲一行は舞阪の海を訪れたのですが、海が遠浅で海水浴には適しているが水泳には適さないと気に入りませんでした。
 その後、海の見える駅で降り、順番に見て行こうということになり、降りた最初の駅が焼津だったのです。焼津の深くて荒い海が気に入った八雲は、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借り、以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。

 八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、八雲が夏の間滞在していた家の魚商人、山口乙吉との出会いがあったことも大きな理由でありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は"神様のような人"と語っていました。
 乙吉は八雲を"先生様"と呼び、八雲は乙吉を"乙吉サーマ"と心から親しく呼んでいました。

 普段はひたすら机に向って物書きに専念していた八雲は、焼津では一緒に来ていた長男・一雄に水泳を教えたり、乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、お祭りを眺めて大喜びしたりとのんびりと楽しい一時を過ごしました。作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての小泉八雲が焼津にはいたのです。
 なおこの山口乙吉宅は、現在は明治村に移築・保存されています。そちらには八雲顕彰会会長・北山宏明氏が書かれた「小泉八雲と焼津」という解説がありましたのでこれも引用します。
 焼津滞在中の八雲の服装は(これは私の母が語ってくれたのであるが、印象はあまりいい恰好ではなかったようだ)、木綿でできた縞模様の浴衣に、三尺の兵児帯を締めた、ごくさっぱりした姿であった。ところが帯の締め方が、腰より上の胴廻りに締めていたので、乙吉が腰廻りに締めるよう教えても、「この方が前割れしないから」と直そうとしなかった。散歩の時は、焼津独特の菅笠をかむり、藁草履で、緒には赤い布が巻いてあった。これは散歩好きの八雲のため、足指を傷めないよう乙吉の手製である。八雲は乙吉の心根に感じ、好んで履いて歩いた。散歩するには必ず乙吉が付添い、土地の伝説やら、由来やらを途々歩きながら話して聞かせた。「乙吉だるま」「漂流」「焼津にて」などの作品になっている。
 散歩のお伴には、乙吉の外に小学一年の乙吉の末娘さき(後小泉邸へ女中として行く)や、近所の腕白共が付いて歩いた。片方の目がなく、もう片方の目の大きい、どんぐり目の八雲の風体は決して優しい印象は与えなかったのに、子供達からは妙に慕われて、海水浴には毎日のように一緒に泳いだ。海に入る時は、浜の漁師達と同様、八雲もフリチンで泳いだ。勿論子供達も男女を問わず同様である。当時小学校高学年であった長男一雄さんが、恥かしいといって海に入らなかったところ、ひどく叱られたと思い出に記している。何の虚飾もない焼津の人々の人情が、若い時代から苦労して来た八雲にとっては、此の上ない好もしいものであったようである。
 八雲と焼津の人びととの心温まる交流に頬が緩みます。最近読み終えた『言葉と戦車を見すえて』(ちくま学芸文庫)の中で、加藤周一氏はロベール・ギラン氏から"日本の民衆の中には、幸福に暮らすことの一種のすばらしい技術がある"と言われたそうです。(p.152) 焼津の人びとにはそうした技術が脈々と受け継がれていたのでしょう。なお幸福に暮らす技術が、焼津だけではなく日本の津々浦々に満ちていたことが、名著『逝きし世の面影』(渡辺京二 平凡社ライブラリー)を読むとよくわかります。というよりも、近代化が始まる前は、世界のどこの地域でも人びとはそうした技術を持っていたのではないかと思います。近代とは、他人を蹴落として自分だけが幸福になるべく競い合う時代と定義できるのではないかな。

 なお気がついたら、小泉八雲関連の史跡をけっこう訪れてきますた。ダブリン熊本新宿松江などですが、よろしければご笑覧ください。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-13 06:26 | 中部 | Comments(0)