2017年 04月 21日 ( 1 )

虐殺行脚 千葉編2(5):習志野(16.12)

 ふたたび大学前の通りに戻って右へ行くと、東邦大学付属中学校・高校がありますが、ここはかつて第十五連隊・第十六連隊があった場所です。校門のわきにそれをしめす木柱がありました。
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 平形千恵子氏によると、満州事変の時に第十三・第十四連隊が満州に行って、その跡地に第十五連隊・第十六連隊が移り、ここには新たに習志野学校がつくられたそうです。例えば中野学校のように、地名のついた学校は特殊な任務の学校で、習志野学校は毒ガスを研究する学校でした。ウィキペディアから引用します。
 第一次世界大戦では、数々の新兵器が使用され、その非人間性について非難し軍縮を求める声が広がった。その一方で、列強各国はこの新兵器を開発又は防禦する研究を奨励し、次々に新兵器の開発を進めた。これら新兵器の中には生物兵器・化学兵器も含まれていた。
 陸軍省は1932年(昭和7年)12月兵備改善案を発表し、この中で毒ガス防護教育の充実をうたった。翌年、化学戦学校が千葉県の習志野に設置されることが新聞で報じられ、まもなく化学戦学校は「陸軍習志野学校」と正式に命名され、8月1日に開校することとなった。学校名が地名なのは、その教授内容の秘匿のためともいわれる。
 学校設置の目的は「陸軍習志野学校令」によると、「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」とあり、毒ガスの知識を普及し、その使用法や防禦法を調査研究する機関であるとしている。習志野学校は「毒ガス学校」とも呼ばれ、毒ガス兵器の開発や実戦を行う機関と思われているが、実際は主に毒ガスの防禦法を訓練する学校であり、動物実験は行われていたようだが生体実験が行われたことはないといわれている。
 きっと大久野島とも関連があるのでしょう。この習志野学校の遺構が残っているということなので、本を片手にペダルをこぎました。まず見つけたのが、土台が煉瓦造りの旧い木造家屋、確証はありませんがおそらく学校の施設だったのでしょう。泉児童公園には、弾薬庫の跡が残っていますが、軍隊のコンクリートは厚くてなかなか壊せないためだそうです。それにしても毒ガスを装填した弾薬などが格納されていた可能性もあるのでは。よりによって子どもの遊ぶ公園にしなくても、と思います。その先には習志野学校裏門の門柱が残っていました。
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 大久保保育所内に残っているレール跡は、習志野学校で使われていたものだそうです。保育所では、信号を渡る練習に使っていたとか。学校跡地の一部が更地として鬱蒼とした木々とともに残っていますが、残念ながら中には入れません。財務省の管理下にあるとか。金網越しに、コンクリートの土台が点在しているのが見えました。案内役の平形千恵子さんによると、実験動物の慰霊碑もあるそうです。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-21 06:30 | 関東 | Comments(0)