2017年 05月 01日 ( 1 )

『標的の島』

c0051620_7244787.jpg 先日、山ノ神と一緒に、ポレポレ東中野で『標的の島 風かたか』を見てきました。公式サイトに、三上智恵監督の言がありましたので、引用します。
 2016年6月19日、過去最も悲しい県民大会が那覇で開かれた。炎天下の競技場を覆いつくした6万5千人は、悔しさと自責の念で内面からも自分を焼くような痛みに耐えていた。二十歳の女性がジョギング中に元海兵隊の男に後ろから殴られ、暴行の末、棄てられた。数えきれない米兵の凶悪犯罪。こんな惨事は最後にしたいと1995年、少女暴行事件で沖縄県民は立ち上がったはずだった。あれから21年。そのころ生まれた子を私たちは守ってやれなかった。
 大会冒頭に古謝美佐子さんの「童神(わらびがみ)」が歌われると聞いて、私は歌詞を聴かないことにした。子の成長を願う母の気持ちを歌ったもので、とても冷静に撮影できないと思ったからだ。ところが被害者の出身地の市長である稲嶺進さんが、歌の後にこう語った。「今の歌に『風(かじ)かたか』という言葉がありました。私たちはまた、一つの命を守る風よけー『風かたか』になれなかった」。そう言って泣いた。会場の女性たちも号泣した。
 できることなら、世間の強い雨風から我が子を守ってやりたいというのが親心。でも、どうやったら日米両政府が沖縄に課す残酷な暴風雨の防波堤になれるというのか。しかし勝算はなくても、沖縄県民は辺野古・高江で基地建設を進めるトラックの前に立ちはだかる。沖縄の人々は、未来の子供たちの防波堤になろうとする。
 一方で日本という国は今また、沖縄を防波堤にして安心を得ようとしている。中国の脅威を喧伝しながら自衛隊のミサイル部隊を石垣、宮古、沖縄本島、奄美に配備し、南西諸島を軍事要塞化する計画だ。その目的は南西諸島の海峡封鎖。だが、実はそれはアメリカの極東戦略の一環であり、日本の国土も、アメリカにとっては中国の拡大を封じ込める防波堤とみなされている。
この映画はそれら三つの「風かたか」=防波堤を巡る物語である。
 辺野古の新基地建設、高江のオスプレイのヘリパッド建設、そして宮古島、石垣島の自衛隊配備とミサイル基地建設など、軍事基地建設を強行する米日両政府に対して、断固として抗う沖縄の人びとを描いたドキュメンタリー映画です。時には体を張って激しく、時には歌と踊りをまじえて楽しく抵抗する人びとの姿には感銘を受けました。それを支えているのは、「理はこちらにある」という確固たる自信と、「二度と戦場にはさせない」というぶれない不屈の意志だと思います。
 逆に、抵抗を排除しようとする機動隊員や警察の方々の、自信のなさそうな、不安げな態度も印象に残りました。目をそらす、マスクやサングラスで顔を隠す、あるいは表情を変えない。まるで人間と機械が対峙し闘っているようでした。これを見るだけでも、理非がどちらにあるかは一目瞭然です。

 しかしメディアの報道は、常に「日本の怒り」ではなく「沖縄の怒り」という論調です。攻撃対象となる危険性、米兵によって多発する犯罪、環境破壊、米軍と補助金に頼る歪な経済構造、歴史的経験による軍隊への不信感、沖縄の人びとが怒り抗うのは当然だと思うのですが、私たちヤマトンチューはこの怒りを共有しようとはしません。歯がゆいほどに。
 何故か? 『要石:沖縄と憲法9条』(晶文社)の中で、C・ダグラス・ラミス氏が鋭い分析をされているので紹介します。
 つまり、主流世論を代表している個人は、以下の考えを持っている人だろう。

1 私は平和を愛している人です。平和憲法の日本に住んでいるのは、居心地よい。憲法九条をなくすのは、反対です。
2 日本の近くに怖い国があるので、米軍が近くにいないと不安です。

 もちろん、この二つの意見は見事に矛盾していて、一つの社会の中で、または一人の個人の頭の中で成り立つはずがないだろう。その成り立つはずのない、二重意識はなぜ崩れないのか。
 答えは沖縄だ。
 日米安保条約から生まれる基地を「遠い」沖縄に置き、基地問題を「沖縄問題」と呼ぶ。基地のことを考えたいとき(福生や横須賀ではなく)「遠い」沖縄まで旅し、「ああ、大変」と思い、平和な日本へ戻ってくる。つまり、軍事戦略の要石として位置は特によくないが、日本の平和な政治意識をそのまま固定するために、遠いけれども遠すぎてはおらず、近いけれども近すぎてもいない、ちょうどいい距離だ。
 その「距離」とは、地理的なことだけではない。ヤマト日本人の(潜在)意識の中で、沖縄は二つあるらしい。ひとつは日本の一部としての沖縄で、もうひとつは海外としての沖縄、である。日米安保条約の下で、米軍基地を日本に置かなければならない。沖縄は法的には「日本」になっているので、なるべく多くの基地を沖縄に置けば、条約の義務を果たすことになる。また、平和憲法の下で日本本土に外国の軍事基地を置くことはふさわしくないので、なるべく多くの基地を「海外」の沖縄に置けば、自分が平和な日本に住んでいるという幻想を(辛うじて)維持できる、ということだ。
 これは、沖縄が要石となっているアーチの応力図だ。そのアーチが崩れないためには、もうひとつの条件が必要である。それはなるべく考えないということだ。だからこそ、もっとも聞きたくないのは、基地の県外移設のことだ。その話は、アーチの要石を抜くことになるので、極めて怖いのである。自分が支持している(または大して反対していない)安保条約は、米軍基地を自分の住んでいるところに置く、という意味の条約だということを、なるべく考えたくないのだから。(p.233~5)
 考えましょう。I.F.ストーン曰く"すべての政府は嘘をつく"、夏目漱石曰く"国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります"(『私の個人主義』)、アメリカ政府も、中国政府も、北朝鮮政府も、韓国政府も、そして日本政府も、ろくでもない存在であるという事を大前提に、日米安全保障条約の可否、在日米軍基地の可否、それを沖縄に集中させることの可否を真剣に考えたいと思います。

 知的・倫理的怠惰に陥らぬよう、重要な一石を投じてくれる素晴らしい映画でした。

 なお沖縄を描いた映画として『沖縄 うりずんの雨』『戦場ぬ止み』も出色です。
by sabasaba13 | 2017-05-01 07:25 | 映画 | Comments(0)