2017年 05月 12日 ( 1 )

若草山山焼き編(5):きたまち(15.1)

 そしてきっちりと護岸工事をされた貧相な川に出ましたが、ここが佐保川ですね。かつては南都八景のひとつ、佐保川の蛍と称えられたそうですが、昔日の面影はありません。ちなみに残りは、東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、雲井阪の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪だそうです。すこし歩くと聖武天皇陵にでくわしました。へえーここにあったのか。
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 佐保川沿いの道に出て、お地蔵さんや石仏、土塀に築地塀に格子窓を愛でながら歩いていると、「多門町」という町名表示のホーロー看板の下部に「仁丹歯磨」という宣伝がありました。
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 仁丹が歯磨きを売っていたとは知りませんでした。またこの町名表示は、広告を入れることを条件に仁丹がつくって配布したものなのでしょうか。謎が謎を呼びます、だから散歩はやめられません。あるお宅は、渋い築地塀、そして門の屋根が本瓦葺でした。維持管理はたいへんかと思いますが、町の景観に潤いをあたえる物件ですので大切にしていただきたく思います。
 またあるお宅の塀には、殺意を感じるほどの鋭い忍返しが設置されていました。あっ鹿だ。このあたりまで徘徊しているのですね、驚きました。
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 そして奈良坂です。『大系 日本の歴史5 鎌倉と京』(小学館)の中で、中世史研究者の五味文彦氏は次のように述べられています。
 都市の境界領域に目をやれば、北里の東北の奈良坂が注目される。平氏の南都攻めのさいには攻防の拠点となっており、『平家物語』は衆徒六万の軍勢が奈良坂を固めたと記している。奈良坂は奈良の出入口であり、その名も車道とよばれ、京都の出入口である清水坂とは、宇治路で結ばれていた。まさに軍事・交通上の要地である。
 そこには清水坂と同様に下層民の集住する場、北山宿がある。文永六年(1269)、北山の般若寺の西野において、律宗の叡尊は非人二〇〇〇人にたいし、大規模な施行をしており、また北山十八軒戸のハンセン病患者救済施設も叡尊のたてたところという。叡尊の弟子忍性は、ちかくにある東大寺の大勧進となって、東大寺の修造に関与したが、大勧進職は、重源にはじまり、栄西・行勇らの禅僧がそれにつづき、そして律僧の手に帰したものである。(p.250~1)
 京都の清水坂と奈良の奈良坂には多くの非人が住んでおり、「坂の者」と呼ばれていたことを思いだしました。たしか興福寺が支配していたのですね。東大寺大仏殿が見下ろせるので、ここが高台であることがよくわかります。装飾にあふれた煉瓦造りの小さな建物がありましたが、奈良市水道計量器室です。奈良にはじめて水道が引かれた時、1920(大正9)年ごろにつくられたそうです。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-12 06:32 | 近畿 | Comments(0)