2017年 05月 13日 ( 1 )

若草山山焼き編(6):北山十八間戸(15.1)

 その近くにある、本瓦葺きで切妻造りの長屋のような建物が北山十八間戸です。『奈良県の歴史散歩 上』(奈良県歴史学会 山川出版社)から引用します。
 今在家から国道を離れ、旧街道(京街道)を北へ200mほど行くと、金網で囲まれた白壁の建物がある。真言律宗の僧で叡尊の弟子、忍性がハンセン氏病患者のために建設したといわれる北山十八間戸(国史跡)である。最近は教科書に掲載されることも少なくなり、さびしい気もするが、わが国で最も古い病院遺構、あるいは救済事業施設の遺構の一つであることにかわりはない。当初は般若寺の北東に建てられたこの建物は、1567(永禄10)年、三好・松永の乱で焼失し、寛文年間(1661~73)に現在の地で再建されたもので、切妻造・本瓦葺の建物である。
 川上町は佐保川の上流にあるところから名づけられたというが、建物のわきから奈良市街をながめていると、このあたりが高台にあることを改めて知るとともに、ハンセン病のために物乞いに行くことができない患者を背負って毎日、奈良の市に連れていったという忍性の伝説を思い出す。第2次世界大戦後は、引揚者の共同住宅になったこともある。今は訪れる人もほとんどなく、近くの16世紀初めにつくられたという夕日地蔵とともに静かにたたずんでいる。(p.51)
 忍性という律僧には興味を引かれます。『週刊朝日百科 日本の歴史 中世Ⅰ‐7 鎌倉仏教』(朝日新聞社)から引用します。
 叡尊の弟子の忍性は、はじめ西大寺で活動したが、関東に戒律をひろめるために、建長四年(1252)西大寺を去った。常陸国で律宗の寺院を開き、殺生禁断の地を定めるなど幅広い活動を続けた後、鎌倉に入り、文永四年(1267)以降、北条重時の創建になる極楽寺を中心に活動した。忍性は、師の叡尊が一人一人の人間を救うことに仏教の意味を見出していたのと異なり、道路を開き、橋をかけ、井戸を掘り、多くの病人を看護するための施設を作ることなどを目的として、力を尽くした。架けた橋百八十九か所、開いた道路七十一か所、井戸三十三か所を数えることができ、救癩のために尽くすことも大きかった。こうした社会事業を行うには多大の費用を要したが、そのために律宗の僧たちは活発な勧進を行った。それが鎌倉時代中期以降の交通や商業の発展を背景にしていることはいうまでもない。そして、こうした活動を続けるために、忍性は積極的に政治的な権力に近づき、保護と援助を求めた。こうした点でも、律宗の行き方は、新仏教とは対照的であった。(4-208)
 鎌倉仏教と言うと、いわゆる新仏教のことのみが注目されます。法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元といったビッグネームが綺羅星の如く活躍したのですから当然ではありましょう。しかしこれまで仏教の研究に専心してきた旧仏教が、新仏教の隆盛に刺激されて、民衆とともに歩もうとしはじめた動きも見逃せません。貞慶、明恵、叡尊、そしてその中でもこの忍性の活動には瞠目します。現実的な方法(橋、道、井戸、北山十八間戸)によって、苦しんでいる人びとを一人でも多く救うのが仏教だ、彼はそう考えたのではないでしょうか。ベルトルト・ブレヒトが戯曲『ガリレイの生涯』(岩波文庫)の中で、ガリレイにこう言わせています。"私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ"(p.192) 宗教の目的も、そういうものであって欲しいですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-13 06:30 | 近畿 | Comments(0)