2017年 05月 17日 ( 1 )

マーラー交響曲第七番

c0051620_6263381.jpg 気鋭の指揮者・山田和樹氏が、日本フィルハーモニーとともに三年をかけてマーラーの交響曲九作を年代順に振る「マーラー・ツィクルス」がいよいよ第3期に入りました。これまでに、第2番「復活」第4番、第5番、第6番「悲劇的」を聴いてきましたが、いずれも聴き応え充分でした。今回の交響曲第7番「夜の歌」も楽しみです。
 開演は5月14日の午後三時。しかし好事魔多し、日曜日だというのに無慈悲にも仕事が入ってしまいました。せんかたなし、山ノ神とは現地で落ち合うことにして、急いで仕事を済ませて渋谷へ駈けつけました。傍若無人にスマートフォンの画面に見入る人びとを掻き分け掻き分け、開演五分前にBunkamuraオーチャードホールの座席に辿り着けました。ふう

 パンフレットから引用します。
 マーラーと武満徹。
 一見するとまったく違う作風の二人の音楽作りの根底にあったもの、それは伝統的な音楽への尊敬でした。とりわけ、音楽の父とされるバッハへの想いは特別だったようです。
 伝統的な音楽から、それまでになかった革新的な音楽への飛翔。自然の音に耳を澄ませ、生と死をみつめ、人間の歌にこだわった二人の作曲家。その姿を追いながら、いよいよ第3期『昇華』を迎えることになりました。マーラーの後期交響曲では、"美"が突き詰められていきます。その先にあったものは一体何だったのか。
 「やがて私の時代がやって来る」-その通りになった現代、マーラーの音楽が私たちに問いかけるものは何なのか。
 祈りと絶望、陶酔と狂気、刹那と永遠、喜悦と怒り、それらが同時に交錯する世界の中で、僕は叫びたくなります。その叫びたくなる感覚はどこから来るのか。死というものを近くに感じるからなのか、美しいものに触れるからなのか。そもそも音楽の始まりは、歌だったのか、叫びだったのか。
 第3期『昇華』は、生きる上での哲学とともに、音楽の原初を辿る旅にもなりそうです。
 溢れる想いを胸に、二人の作曲家に感謝しながら。
 そう、このツィクルスでは、山田和樹氏の強い希望によりすべて武満徹氏の曲と組み合わされています。今回の曲は、「夢の時(オーケストラのための)」。アボリジニの間に伝わる天地創造の神話をテーマとした曲です。グリッサンドやトリルが多用された音の波動に身を任せ、しばし夢の世界に遊びました。
 そして休憩の後に、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」が演奏されました。…告白しますと、第3楽章までは、仕事の疲れもあって酔生夢死状態。鼾をかかぬように気をつけてうつらうつらと夢心地で音楽に浸っていました。マーラーさん、ごめんなさい。しかし第4楽章の「夜曲 アンダンテ・アモローソ(愛情を込めて)」が始まると、とたんに覚醒。ああ何て愛らしく魅惑的な音楽なのでしょう。逍遥するような穏やかなテンポに乗って、親しみやすくチャーミングなメロディが流れていきます。意外な取り合わせですがギターとマンドリンの音も、曲想によく合っています。睡魔も眠ってしまうような至福のひと時でした。そして第5楽章「ロンド‐フィナーレ」では、音の洪水と爆発に圧倒されました。「夜の歌」の終楽章なのにこの底抜けの明るさは何なんだ。ま、いいや。身悶えするような音の響きと迫力に身も心もゆだねましょう。

 実は『マーラーの交響曲』(金聖響+玉木正之 講談社現代新書)のなかで、指揮者の金聖響氏が、この交響曲はよくわからない、とぼやいておられるのですね。しかしその後で、マーラー研究家のアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ氏の言葉を引用されています。
 マーラーは聴かれることを望んでいたが、裸にされることは望んでいなかった。彼は自作についての分析や注釈や解説を嫌悪し、晩年にはそれらを禁じたほどだった。歌曲のひとつにドミナント(属音)の和音で終わるものがあると指摘されたときには、腹を立て、その曲は理性よりもむしろ直観で聴いてほしいと答えたという。(p.218)
 マーラーの楽曲を分析する能力も理性もない小生としては、たいへん心強いお言葉です。これからも虚心坦懐に音に身も心も委ねることにしましょう。

 さあ次回は交響曲第8番「一千人の交響曲」です。いまからワクワクしています。
by sabasaba13 | 2017-05-17 06:27 | 音楽 | Comments(0)