2017年 08月 01日 ( 1 )

ばらの騎士

c0051620_6231720.jpg 以前から見たい聴きたいと念願していたリヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』を、ようやく鑑賞することができました。東京二期会による公演で、セバスティアン・ヴァイグレが指揮する読売日本交響楽団、そして演出はリチャード・ジョーンズです。
 会場は上野にある東京文化会館。山ノ神と二人で早めに家を出て、上野駅構内にある「たいめいけん」でオムライス+ハンバーグ+ボルシチ+コールスローを食して腹の虫を黙らせ、「シーズカフェ」で珈琲を飲んで睡魔を手懐け、準備万端調いました。
 座席は三階正面の最前列、舞台全体を一望できるし、オーケストラ・ピットも覗けるし、足も悠々と伸ばせるし、なかなか良い席でした。さあはじまりはじまり、どきどきわくわく。
 まずは簡単にあらすじを紹介します。舞台は1740 年、マリア・テレジア治世下のウィーン。オックス男爵の結婚に際し、貴族の結婚の印として贈られる銀のばらを運ぶ使者として、元帥夫人は自分の不倫相手オクタヴィアンを選びます。オックス男爵の花嫁となるゾフィーのもとへ銀のばらを運んだオクタヴィアンでしたが、若い二人は一目ぼれ。粗野なオックス男爵からゾフィーを守るため、オクタヴィアンは女装して仲間とともにオックス男爵に一泡ふかせ、婚約を破談させました。そして伯爵夫人が現れてオクタヴィアンとゾフィーの仲を認め、二人を祝福して自らは身を引きます。おしまい。
 という、何とも他愛のないお話です。しかし華やかな序曲がはじまると、もう夢のような世界に惹き込まれました。リヒャルト・シュトラウスが紡ぎだす音楽の何と素晴らしいことよ。時には勇壮に、時には不安気に、時には面白可笑しく、そして時には底なし沼のように甘美に… 華麗で優美なウィンナ・ワルツの数々にも蠱惑されました。中でも身も心もとろけてしまったのは、第三幕最後の場面、伯爵夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重唱です。裏切りに苛まれるオクタヴィアン、未来に不安を抱くゾフィー、そして二人を気遣い祝福して身を引く伯爵夫人。三者三様の想いを乗せながら三つのメロディが甘美に絡みあう、その素晴らしさ。作曲者シュトラウスが、この曲を自分の葬儀で演奏してほしいと望んだのも頷けます。その後に歌われたオクタヴィアンとゾフィーの二重唱では、愛の喜びに包まれながらも、茶々をいれるような木管のオブリガードがからみ、二人の将来への不安を感じさせるなど、芸の細かさにも脱帽。
 歌手陣も申し分なく、中でも出色がオックス男爵を演じた妻屋秀和氏です。豊かな声量や卓抜した表現力もさることながら、男爵を単なる悪役とせず、男の業を漂わせながらコミカルに演じた演技力にブラーボ! 読売日本交響楽団も熱演でした。演出・振付・舞台装置もお見事でした。スラップスティックのようなドタバタの場面での、集団のコミカルなダンスや動きなども秀逸。第三幕ではあえて三角形の部屋として三重唱での三人の想いを際立たせたり、ライトによって壁紙の色を千変万化させたりするなど、舞台装置や照明にも拍手を贈りたいと思います。ブラービ。

 いま思い返してみると、作品全体の半分くらいしか登場しないのですが、伯爵夫人の存在感が強く印象に残ります。特に、第一幕最後の場面で、自らの老いを嘆く静謐な独唱に心打たれました。オクタヴィアンへの愛を諦め、若い二人の前途を祝するのも、この老いの故なのでしょう。
 おばあさん、老マルシャリン(※伯爵夫人の名前)! どうしてそんなことが起こり得ようか。どうして神様がそんなことをなさるのだろう。私自身はいつも同じ人間なのに。神様がそうなさらなければならないのなら、何故私にそれを見せようとなさるのだろう。
 しかもこんなにはっきりと、何故それを私の目から隠そうとなさらぬのか。すべてのことが不可解だ。そして人間はそれに堪えしのぶために生きているのだ。そしてこの「どうして」の中にすべてのちがいがある。
 このオペラの初演は1911年、時は第一次世界大戦が始まる三年前、シュトラウスと台本作者のホフマンスタールは、ハプスブルク帝国の凋落と崩壊を予感し、その墓碑銘として伯爵夫人に歌わせたのかもしれません。

 これまでに見た中でもっとも素敵なオペラであったと、山ノ神と意気投合。こんな素晴らしい人と気を贈ってくれた二期会と読響に感謝するとともに、日本オペラ界の実力もなかなかのものだと実感。これからもお金と時間の許す限り日本のオペラに足繁く通って、応援していきたいと思います。
by sabasaba13 | 2017-08-01 06:24 | 音楽 | Comments(0)