2017年 09月 02日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 3

 まずは、関東大震災(1923)までの、朝鮮の歴史および日朝の関係史を概観しておきましょう。朝鮮王朝の支配体制が動揺していた19世紀初期以降、欧米列強の船が朝鮮に来航し通商を求めるようになります。しかし朝鮮はこれを拒否して鎖国を守り、攘夷を宣言しました。明治維新をなしとげた日本でも「征韓論」が沸騰するなど、武力を行使してでも朝鮮を勢力下に入れようという動きが起こります。これは不平士族や重税に喘ぐ農民の不満を逸らすための方策でもありました。明六政変で権力を握った大久保利通政権は、1876年、江華島事件を起こして不平等条約(日朝修好条規)を押し付け、朝鮮を開国させました。開国後、渡朝した日本商人は穀物や金の地金を買いたたき、木綿や雑貨を売りつけました。いわゆる「天秤棒帝国主義」ですね。その結果、朝鮮では物価が騰貴し、民衆の生活は苦しくなりました。そういう時期にソウルで兵士が反乱を起こしたのを契機に反政府・反日の大暴動、壬午軍乱が勃発します(1882)。あくまでも朝鮮との冊封関係を維持しようとする清は、軍隊を派遣して暴動を鎮圧し、親中国的な閔氏政権をつくりました。これに対して、近代的改革による朝鮮の独立を目ざす開化派が、日本の支持を得てクーデターを起こし、親日政権を樹立しました。しかし清軍の反撃にあい政権は崩壊し、清の後ろ盾を得て再び閔氏政権が成立。いわゆる甲申政変です(1884)。これで朝鮮に対する日本の影響力は失われます。

 この間、朝鮮の官僚は混乱に乗じて農民への苛斂誅求を加重したために、東学党を中心に反侵略・反封建の甲午農民戦争が起こりました(1894)。農民軍を鎮圧できない政府は清に出兵を要請、それを知った日本はただちに出兵し、ここに日清戦争が勃発しました。この戦争に勝利した日本は下関条約(1895)により、朝鮮の独立=冊封関係の消滅を清に認めさせ、遼東半島・台湾などを割譲させました。こうした朝鮮・満州を射程に入れた日本の動きにロシアが反発。三国干渉で遼東半島を返還させるなど、満州・朝鮮を勢力下に置こうとします。朝鮮でもロシアの助力を得て独立を守ろうとする勢力が伸張しました。危機感に駆られた日本公使三浦梧楼らは日本軍人・浪人を使って反日派の首領・閔妃を殺害し、親日政権の樹立を企てます(乙未事変1895)。しかしこのクーデターは失敗に終わり、日本の対朝鮮政策はここに瓦解しました。なお与謝野鉄幹は、当日たまたま地方にいて暗殺に参加しませんでしたが、壮士として常に暗殺団と行動をともにしていたそうです。(⑤p.73~4) 1897年に国王高宗は皇帝に即位し、国号も大韓帝国と改め、列強の勢力均衡を利用しながら独立を守り抜こうとします。

 「朝鮮半島は日本の柔らかい横腹に突きつけられた短刀」と言った官僚がいましたが、この時点で日本政府は、安全保障上の喫緊の課題として、ロシアの勢力を排除して朝鮮を植民地とすることを決意します。東アジアにおけるロシアの南下を恐れるイギリスと日英同盟を結び(1902)、日露戦争に踏み切りました(1904)。日本は開戦と同時に朝鮮に「日韓議定書」を強要し、日本軍の行動の自由と基地使用の権利をとり、続いて「第一次日韓協約」によって外交と財務に顧問を送り込み、朝鮮を制圧しました。戦争は日本の辛勝に終わり、ポーツマス条約で朝鮮に対する日本の支配的地位が国際的に承認されると、ハーグ密使事件をきっかけに「第二次日韓協約」を押し付け、朝鮮を日本の保護国にして外交の権利を奪い、統監府を設けました。初代統監・伊藤博文が、民族運動家・安重根に射殺されると、これを機に司法・警察・通信などの権利を奪い、ついに朝鮮を併合しました(1910)。ここに約500年続いた朝鮮王朝を、日本は滅ぼしたわけです。なお私たちは忘れがちですが、朝鮮人から見れば、日本による侵略は豊臣秀吉による凄惨な朝鮮出兵から始まっているわけで、これを「恨五百年(ハン・オーペクニョン)」と言うそうです。
by sabasaba13 | 2017-09-02 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)