2017年 09月 04日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 4

 併合後、総督府(←統監府)は軍人総督のもとで、憲兵警察を全土に配置して朝鮮人を徹底的に弾圧しました。いわゆる「武断政治」です。これ以降の、日本による朝鮮支配の特徴を、姜徳相氏は次のように指摘されています。
 日本の朝鮮支配の特徴をわかりやすくいうと、1910年代は土地よこせ、20年代は米よこせ、30年代後半から45年までは人よこせ、命よこせ、と区分できる。(『朝鮮人学徒出陣』 岩波書店 p.ⅴ)
 「土地よこせ」は土地調査事業、「米よこせ」は朝鮮産米増殖計画、「人よこせ」は強制連行と慰安婦、「命よこせ」は徴兵ですね。まずは土地の奪取です。総督府は大規模な「土地調査事業」を強行し、証拠の不備な土地をどんどん国有地に編入し、土地を申告する書類を書く能力のない農民から土地を奪っていきました。その結果、多くの農民が日本へ出稼ぎに行かざるを得なくなります。こうした亡国の前後において、独立の回復を求める広範な義兵闘争が起こります。日本軍は総力をあげて攻撃しましたが、義兵は満州との国境地帯・間島を中心に活動を続けました。なおこの 義兵戦争(1906~11)における義兵の戦死者は17,779人、これは宣戦布告なき戦争であり、また一般民衆までまきこんだ大虐殺と言っていいでしょう。なお日本軍の戦死者は136人、もちろん靖国神社において神として祀られています。(④p.39) また満州、上海、アメリカなど国外でも独立運動が活発に行われていました。

 そして第一次世界大戦の勃発(1914~18)、そしてその最中にロシア革命(1917)が起こります。植民地の争奪が世界戦争につながったとする見地から、レーニンによる「平和に関する布告」、それに対抗するアメリカ大統領ウィルソンによる「十四カ条原則」が提唱されました。その結果、民族自決・植民地からの独立を求める動きが、燎原の火のように世界に広がります。朝鮮においても、日本にいた朝鮮人留学生が独立宣言(二・八宣言)を発表しました(1919)。場所は、在日本東京朝鮮YMCAの講堂で、現在は在日本韓国YMCAとなっており、記念碑と資料室http://www.ymcajapan.org/ayc/2_8/JP/index.htmlがあるとのこと。いつか訪れてみたいと思います。続いて同年3月1日、民族代表がソウルで独立宣言書を発表し、独立万歳を叫ぶ示威運動がたちまち全国に波及しました。三・一独立運動です。参加者は200万人、日本軍は独立万歳を叫ぶ素手の民衆に襲いかかり、戦場の論理で無差別虐殺を敢行しました。死者は7,500余名、この数字は騒擾鎮圧というよりも戦争ですね。例えば、3月10日に平南孟山では、100名のデモに76発の弾丸が使われ、総計で67名死んでいます。これは皆殺しを意図したものと言わざるをえません。逮捕者は約5万人、死刑判決はなかったのですが、裁判以前の無数の即決の死刑があったのですね。(③p.54~7) なおこの苛烈な弾圧を行なった当事者が朝鮮総督府政務総監・水野錬太郎、警察局長・赤池濃でした。水野は、姜宇奎(カン・ウギュ)による斎藤実朝鮮総督投弾事件を経験しています。(1919.9.2) 京城南大門駅から馬車が動きはじめた時に爆弾が投ぜられ、斎藤は負傷をまぬかれたものの、水野をはじめ出迎えの高官・警官をふくむ29名の重軽傷者を出した事件です。独立運動の強靭なエネルギーを体験したこの二人が、関東大震災時にそれぞれ内務大臣、警視総監であったことは銘肝しましょう。

 そしてこの三・一独立運動が国境を越え一衣帯水の中国領間島に波及、これに対して日本軍は独立軍の根拠地覆滅のため1920年10月に間島侵攻を敢行しました。死者3,103人、被強姦数76人、被焼戸数2,507戸。また日本はロシア革命干渉戦争としてシベリア出兵を行ないますが(1918~22)、シベリアの地でも日本軍と朝鮮独立軍は激しい戦闘をくりかえしました。こうした激しい独立運動を報道する日本の新聞は、「朝鮮独立運動の陰謀」(『読売新聞』 1919.11.28)、「不逞鮮人が独立陰謀の?末、暗殺放火強盗を恣にす」(『読売新聞』 1920.8.18)というように、これに不逞・陰謀・暗殺・放火・強盗といったレッテルを貼りました。日本の民衆が「不逞鮮人」というイメージを信憑するにいたった一つの原因ですね。関東大震災時の虐殺や暴行の際に、日本人によって多用された「不逞鮮人」という言葉の淵源はここにありそうです。

 もう一つ、忘れてはならない重要な事件がこの頃に起きています。都市人口の増大、米生産の停滞、シベリア出兵を契機とする米の買占めが原因となって米価の高騰が起こり、米騒動が勃発したことです。非組織的・自然発生的な暴動でしたが、参加人員は数百万人、支配者の心胆を寒からしめました。これを機に、民衆の暴動が社会主義革命につながることを、官憲は極度に恐れ警戒することになります。なおこの時の内務大臣が水野錬太郎であったことは、記憶にとどめましょう。この米騒動の時に内務省は暴動対策として、被差別部落民などを仮想敵とし、各市町村に、在郷軍人分会と青年会を中核とする自警組織をつくるよう行政指導を行なっています。大震災時の自警団は、その大規模な再版だったのですね。
by sabasaba13 | 2017-09-04 09:12 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)