2017年 09月 06日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 5

 さて、日本は三・一独立運動を鎮圧したのち、従来の「武断政治」を改めて「文化政治」を採用し、朝鮮人に多少の発言権を認め、その懐柔を図りました。と同時に、親日的な朝鮮人の育成にも力を入れ、民族の分断を策しました。さらに日本は食糧難を打開して米騒動の再発を防ぐために、朝鮮米の増産と日本への移出を強行しました。1920年から開始された「朝鮮産米増殖十五か年計画」です。姜徳相氏いうところの「米よこせ」の段階ですね。同時に、米の増産により朝鮮の民心を平穏化する、朝鮮人地主の利益を図り彼らを植民地支配の支柱にする、という一石三鳥をねらった政策でした。なおこの計画策定の中心となったのが、朝鮮総督府政務総監・水野錬太郎です。
 しかしこの計画実施のための低利資金や朝鮮殖産銀行の金融は地主層のみを対象としていたので、一般農民は水利組合費や土地改良工事の負担金の調達を地主からの借金に依存せざるをえず、小作農に転落する者も増えました。また地主は土地改良工事の費用を小作料で捻出しようとして小作料を引き上げたため、小作農はますます貧窮化していきました。こうして、離農して日本や満州への出稼ぎに行かざるを得ない朝鮮人が増えていくことになります。(⑥p.20~4) なお付言しておきますと、この安価な朝鮮米の流入は内地の、特に東北地方の農民を圧迫することになります。そして農業労働力を重工業に振り向けて産業構造を転換しようというのが、後にテロで倒される浜口雄幸や井上準之助らの深謀だったようです。農村は崩壊するに任せ、産業合理化を図り国際競争力を上げるという政策ですね。その農民の絶望と憤懣に共感し代弁するというかたちで、軍部や右翼が台頭することになりますが、それはもう少し後の話です。

 以上のような理由に加えて第一次世界大戦による好景気もあり、日本に働きにいく朝鮮人は急増しました。男性の就業先は主に土木、建築、炭鉱でした。日本の炭鉱では、利益を優先する経営者が保安設備を手抜きしたため、落盤やガス爆発などの危険が大きかったのですが、朝鮮人労働者の大部分はその坑内労働に従事させられました。女性の就業先は、大阪近辺の紡績業でした。その経営者は、朝鮮人、沖縄人、被差別部落の女性など、差別を受けて低賃金でも働かざるをえない女性を集めて、過酷な労働条件で働かせていました。この問題については、『朝鮮人女工のうた -1930年・岸和田紡績争議-』(金賛汀 岩波新書200)がたいへん参考になりました。そして三・一運動直後に朝鮮人の出入国を制限するために設定した旅行証明制度が1922年12月に廃止され、在日朝鮮人労働者が急増します。在日朝鮮人人口は、韓国併合の1910年には2,600人、大戦景気の1918年には34,082人、そして旅行証明制度が廃止された翌年の1923年には136,557人と鰻上りに増えていきました。そして1920年頃から戦後恐慌が始まると、企業の経営者は未熟練労働者の雇用を日本人から朝鮮人へと切り替えて、不況を乗り切ろうとします。その結果、日本人下層労働者は、自分より安い賃金で働く朝鮮人労働者を競争相手とみなし、もともと根づいていた差別意識は強い反感にまで高まり、関東大震災時における虐殺の伏線となります。結局、彼らは「本当の敵」に気づかなかったのですね。今の状況と似ています。(⑥p.25~30)
 そして1920年前後より、東京は在日朝鮮人たちの独立運動の中心地となります。当時東京に居た留学生の数は500名から1500名に達していて、東京神田にある在日本東京朝鮮YMCAは、在日韓国留学生の民族運動の温床でした。こうした動きへの対策でしょう、1921年7月28日には、警視庁特高課に内鮮高等係が設けられます。
by sabasaba13 | 2017-09-06 06:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)