2017年 09月 08日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 6

 1922年7月、信濃川下流に朝鮮人の死体が多数流れつくという事件が起きました。上流の電力会社の工事現場で、監督者や日本人労働者からのリンチによる死体であると考えられます。この事件を契機にして、朴烈は9月7日東京神田で日本人500人、朝鮮人500人を集めた「信濃川虐殺問題大演説会」を開いています。当時の日本共産党の機関紙である『前衛』はこの問題を取り上げ、日本人労働者は朝鮮人労働者と提携して、朝鮮人に対する一切の差別待遇の廃止、同一労働同一賃金を組合のスローガンとすることを提起しました。また、東京朝鮮労働同盟会(1922.12)が組織されるなど、朝鮮人労働者も労働運動に参加して団体行動を取るようになります。このように、それまでは関係が密とは言えなかった日本の階級問題たる労働問題と、民族問題たる朝鮮人問題とが結びつきつつありました。朝鮮人たちの抱いている「恨」が日本人の労働運動・社会主義運動と結びついたら非常なエネルギーとなる、そのために官憲はそれらの動きを極度に警戒するようになったことも銘肝しておきましょう。
 そして1923年の第四回メーデー準備協議会は、そのスローガンの一つとして「植民地の解放」を採択します。在日朝鮮人社会主義者・労働者と日本人社会主義者・労働者との間に、民族差別賃金廃止と植民地解放に向けての連帯が始まったのですね。この連帯の萌芽を徹底的に潰すために、この第四回メーデーに対して警察はかつてない大弾圧を行ないました。演壇に登った孫某は「演壇下の私服から忽ち突き落とされ…、四、五名の警官が滅茶苦茶に蹴る、踏む、なぐるで…、更に手をねじあげ、なお靴でけりながら検束した」(『東京日日新聞』 1923.5.2)。また刑事がデモ隊の中の朝鮮人三十余名に飛びかかって引きずり倒し、蹴飛ばして交番に投げ込み、さらに長い頭髪をつかんで引きずり、自動車で運ばれた頃には朝鮮人たちの顔面、手足がはれ上がっていました。(『報知新聞』 1923.5.2) なおこの半年後に虎の門で摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃した難波大助は、この現場にいて警官による朝鮮人への弾圧を目撃し、詩をつくっています。
 そして1923年8月29日は、朝鮮人にとっては国を失った国恥日であり、彼らが居る所では世界のあらゆる所で国恥日の行事が催されました。また、9月2日は国際青年の日で、青年と大学生たちが記念集会とデモを行なうという情報に、警察は要視察人の予備調査をするなど緊張した状態に置かれていました。
by sabasaba13 | 2017-09-08 06:20 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)