2017年 09月 15日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 9

 話を戻しましょう。当時は政変の最中で、前首相・加藤友三郎は8月24日に大腸ガンによって死去しており、後継首班の大命が海軍大将・山本権兵衛に降下していました。しかし山本内閣はいまだ成立しておらず、事務引継ぎのため、内田康哉を臨時首相代理とする前任内閣が行政を担当していました。大地震の直後、内閣閣員の頭にまず浮かんだのは、驚愕と恐怖におびえる国民に対する救済策ではなく、宮中の安否でした。臨時首相・内田康哉は皇居にかけつけ、摂政裕仁の無事を確認し、日光に避暑中の大正天皇の安危を確認するためにあらゆる努力を傾注しました。また水野錬太郎内務大臣は、参内に必要なフロックコートをとりいにいかせるために、逃げまどう人々を押し分けて車を高輪の自邸に走らせました。
 警備・救護の直接責任者である警視総監・赤池濃(あつし)も、まず宮中に馳せ参じ、庁舎へと戻る車中から瓦礫の町・燃える市街を見聞しました。彼の脳裡に、彼自身の言葉を借りれば「余は千著万端、此災害は至大至悪、或は不祥の事変を生ずるに至るべきかを憂えた」という思いがよぎります。総監室に戻った赤池は幹部たちを集めて緊急協議を行ない、災害の実態を把握しようとします。その結果、東京市内の警察署の多くは焼失・倒潰、署員の非常呼集も満足にできないなど、警察力が壊滅状態にあることが判明します。さらに火の手は警視庁にも迫ってきました。警視庁編『大正大震火災誌』にこうあります。
 斯ル微弱ナル警察力ヲ以テ非常時ノ警戒ニ任ジ帝都ノ治安ヲ完全ニ保持スル事ノ困難ナルヤ明ナリ況ンヤ窮乏困憊ノ極ニ達シタル民衆ヲ煽動シテ事端ヲ惹起セント企ル者ナキニ非ザルニ於テオヤ (p.20)
 何をしでかすかわからない民衆への不信感、米騒動再発の危惧、彼らを先導する社会主義者への警戒心。さらには韓国併合以後、迫害しつづけてきた朝鮮人が、この無秩序につけこみ、復讐にたちあがる懸念。そういった渾然一体となった強迫観念が、赤池の胸中にあったと考えられます。これが「不祥の事変」の正体でしょう。

 やがて警視庁が炎上したため、午後二時、警戒本部は日比谷公園有楽門前に移りました。そして赤池はこの情勢を奏上するために皇居に参内し、ここで内務大臣・水野錬太郎と警保局長・後藤文夫と会同しています。ここに、水野錬太郎・赤池濃・後藤文夫という、治安対策の最高決定権者が揃い踏みしたわけです。米騒動(1918)の際には、水野は内務大臣で、赤池・後藤も内務省に勤め、治安当局者として民衆弾圧の先頭に立って過剰鎮圧を指揮した人物です。水野・赤池については、前述のように、朝鮮総督府政務総監・警察局長として、三・一独立運動への苛烈な弾圧を行なった当事者です。水野は、斎藤実朝鮮総督投弾事件で負傷をしており、赤池もその現場に居合わせました。(1919.9.2) よって三人とも、日本人群衆の暴動や朝鮮民衆の独立運動の巨大な威力と恐怖を誰よりもよく知っていたわけです。
by sabasaba13 | 2017-09-15 06:24 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)