2017年 09月 17日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 10

 三人は、弱体化した警察力を補完し、治安を維持するためには、軍事力の展開、すなわち戒厳以外にはないという結論に達したようです。このあたりの動きについては、史料が残されていない(隠蔽された?)ので、推測するしかありません。詳細は後述しますが、この戒厳の施行が、朝鮮人をはじめとする虐殺に大きく関係しますので、補足しておきたいと思います。

 日本大百科全書(ニッポニカ)によると、戒厳とは「戦時または事変に際して、平時の法を停止し、行政権・司法権の全部または一部を軍隊の司令官にゆだねること」です。戦前の日本における戒厳は、大日本帝国憲法の第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」に基づいていて、詳細は1882(明治15)年に布告された法律「戒厳令」によって定められています。戒厳には「真正戒厳」と「行政戒厳」があります。「真正戒厳」は戦時や事変に全国または一地方を警戒する法律で、これには二種類あります。ひとつめは「臨戦地境戒厳」で、戦時にあって警備を要する地域で施行され、軍事に関する事件に限り、地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となります。ふたつめは、より緊迫した状況の時に施行される「合囲地境戒厳」です。敵に包囲されている、または攻撃を受けている地域で施行され、一切の地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となります。ちなみに、「臨戦地境戒厳」が施行されたことは二回だけで、対象とされた地域は、日清戦争(1894~5)のときの広島および宇品、日露戦争(1904~5)のときの長崎、佐世保、函館、台湾、対馬などです。これは、国民をひきしめ統合を強化するための戒厳で、軍事的な必要性は少なかったようです。いずれも臨戦地境戒厳で、合囲地境戒厳が宣告されたことは一度もありません。
 ふたつめが「行政戒厳」で、内乱やクーデターなど平時の緊急事態に施行し、戒厳令に規定がないため緊急勅令で行ないます。施行されたことは三回、日比谷焼き打ち事件(1905)、関東大震災(1923)、2.26事件(1936)です。なお戒厳をしくほどではないが、警察では対応できない非常事態に対して軍隊が治安維持のために出動することもあり、これは治安出兵といいます。明治憲法の非常大権を根拠とし、知事や現地指揮官に治安出兵権が付与されます。実例としては、秩父事件(1884)、米騒動(1918)、三・一独立運動(1919)などです。

 さて、この場合の戒厳は、戦時ではないのですから当然「行政戒厳」です。しかも内乱も暴動も起きていない、あるいは確認できていない状況で布告しようとするのですから、非常に問題の多い決断です。予断といってもいいでしょう。それはともかく、「行政戒厳」は緊急勅令によって布告されるので、枢密院の諮詢が必要です。水野らは閣議に戒厳令の施行を具申しますが、反対意見が強く沙汰やみとなりました。理由としては、諮詢をすべき枢密顧問官の招集が不可能である、事務引継ぎ内閣がそのような重大な決定をする事への疑問、そして臨戦でも内乱でもないのに戒厳令を布く名分がない、といった理由です。こうして戒厳令は回避され、警視庁による出兵要求にとどまりました。午後4時頃、赤池は森岡守成近衛師団長に対し、正式の出兵要求書を提出します。

 こうした動きの一方で、軍事当局は独自の判断から、午後1時10分に非常警戒令を発し、近衛師団と第一師団の軍事力を東京各地に展開していました。これは衛戍(えいじゅ)条例に基づくものでしょう。『国史大辞典』2(吉川弘文館)から引用します。
 陸軍軍隊の永久駐屯地の警備に関する条例。…衛戍とは、陸軍軍隊の永久一地に駐屯することであって、衛戍条例は、衛戍地の警備および陸軍の秩序・軍紀・風紀の監視、ならびに陸軍に属する建築物などの保護に任ずる衛戍勤務を規定した法規である。本条例は、衛戍勤務令(軍令)によって活用され、その地に駐屯する軍隊(憲兵隊および陸軍教化隊を除く)の長のうち、上級先任者(東京は警備司令官)が衛戍司令官となる。衛戍司令官は、災害または非常の際、治安維持に関する処置については、当該地方官と協議する。もし地方官から兵力の請求あるとき、事が急であれば、直ちにこれに応ずることができる。またその事が地方官の請求を待つ余裕のないときは、兵力をもって便宜処置することができた。(p.225)
 近衛師団長の代理として臨時衛戌司令官に就任した第一師団長・石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていたことも指摘しておきましょう。なおこの名前で気づかれた方も多いと思いたいのですが、そうです、あの石光真清の弟でもあります。1868(慶応4)年、熊本に生まれ、少年時代を神風連の乱や西南戦争などで激動する熊本で過ごし、その後軍人として日清戦争・日露戦争に出征、また生涯の大半をシベリア・満州での諜報活動に従事し波瀾に富む人生を送った方です。自伝的な手記は没後『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の四部作として出版され、私も読みましたが、近代日本の側面史を伝える資料および文学作品として非常に素晴らしい作品でした。その波瀾万丈の人生、信じ難い記憶力、そしてソリッドで的確な描写力、いずれも圧倒されたのですが、何といっても己の眼で事実を見詰め己の頭でそれについて考え抜く、およそ凡百の軍人にはありえない自立した冷徹な精神に感銘を受けました。例えば、以下のような文章を書ける人物が、日本の近代史において何人いたでしょうか。
 国籍が違っても階級が違っても、人間の生活感情や思想は互いに共通する部分の方が、相違する部分より遥かに多いのに、相違点を誇大に強調して対立抗争をしている。僅かな意見の相違や派閥や行きがかりのために、ただでさえ不幸になりがちな人生を救い難い不幸に追い込んでしまう。情けないことである。なにか大きいものが間違っていて、私たち人間を奴隷のようにかりたてている。一国の歴史、一民族の歴史は、英雄と賢者と聖人によって作られたかのように教えられた。教えられ、そう信じ己れを律して暮して来たが…だが待て、それは間違っていなかったか。野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性によって作られたことはなかったか。胸の中が熱くなり、また冷えた。(『誰のために』より)
 野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性、朝鮮人虐殺を理解するキーワードかもしれませんね。なお彼の生誕の地を訪れた時の旅行記を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧を。
by sabasaba13 | 2017-09-17 07:50 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)