2017年 09月 18日 ( 1 )

『茶色の朝』再読

 日付は記録しておかなかったので不明なのですが、最近の朝日新聞に、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ:物語 ヴィンセント・ギャロ:絵 大月書店)というディストピア掌編小説が静かなブームになっているという記事が載っていました。『茶色の朝』については、以前に拙ブログで書評を掲載しましたので、そこからあらすじを転記します。
 茶色党が支配するある国で、茶色以外の猫や犬を飼うことが禁止される。やがて党が指定したもの以外の新聞や本も消されていく。そして以前に茶色以外の猫や犬を飼っていた者が拘束され、夜の霧のようにいなくなっていく、というシンプルなあらすじです。主人公は、「科学者が言っているから」「法律だから」「感傷的になっても仕方がない」「まわりからよく思われていさえすれば、放っておいてもらえる」「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、生活も簡単になるかのようだった」「茶色に守られた安心、それも悪くない」「俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い」と呟きながら、こうした事態を傍観していきます。そして茶色の朝早く、以前白に黒のぶちの猫を飼っていた彼の家のドアを誰かがたたきます。彼はこう言います、「いま行くから」
 不安から逃れ安心を得るために、"党"の決めた思考・行動パターンを受け入れ、周囲の人々と一体化し、異物を排除していく。全体主義が浸潤しすべてを覆い尽くす過程を、普通の市民の視点から眺め、そしてそこに彼らがどのように関与するかを描いた恐るべき小説です。なお全体主義とは、『全体主義』(エンツォ・トラヴェルソ 平凡社新書522)にしたがって、下記のようなものであると考えておきます。
 彼女(※ハンナ・アーレント)にしたがえば、全体主義は、ただ単に国家による個人の吸収ではなく、人々の複数性と相違性の表現の場としての(それなくしては自由もありえない)政治的なものの破壊なのである。(p.114)

 それからわれわれは、全体主義とは人間を、その意見、その振舞い、その生活様式を、規格化する意志であると定義した。(p.145)
 しかしこの記事を掲載したのは2005年5月、第二次小泉純一郎内閣のとき。己の書評を読み返すと、どことなく他人事のような呑気な感じがします。いくら自民党だって本気で全体主義化を考えているわけはないだろうし、考えていたとしても実行はまだ先のことだろうと根拠のない楽観をしていたようです。
 甘かったですね。安倍上等兵率いる自民党政権が、特定秘密保護法案や共謀罪法案を強行採決するなど、これほど本気かつ迅速に全体主義化を推し進めるとは思いもしませんでした。そして多くの人びとがこの政権の禍々しさに気づかず投票し支持し棄権し、"俺とシャルリー"のように、事態の推移を傍観しようとは。そう、現今の日本はとうとう「茶色の朝」を迎えてしまいました。これは読み返さなくては、と思って本棚をひっかきまわしましたが見つかりません。インターネットで購入して再読、あらためて肌に粟が生じるとともに、本の最後にあった高橋哲哉氏のメッセージ「やり過ごさないこと、考えつづけること」を読んで考えさせられました。以下、引用します。
 「茶色の朝」は、私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることを、じつにみごとに描きだしてくれています。(p.41)

 そんな「ふつうの人びと」である私たちは、「俺」とシャルリーがそうであるように、社会が「茶色」に染まっていく傾向に、ときにはとまどい、ときには呆れ、ときには不安や疑問を感じながらも、結局は、さまざまな理由をつけて、そのつど「流れ」を受けいれてしまっているのではないでしょうか? そうでないとしたら、いったいどうして、国内外の非難を浴びた暴言を撤回も謝罪もしない政治家が、選挙で堂々と当選したりするのでしょうか? 市民の自由を奪う法律をつぎつぎに成立させる政治勢力が、国会で絶対多数を占めつづけるのでしょうか? 平和憲法をもつこの国で、イラク攻撃への反戦運動参加者が、ドイツ、フランス、イタリア、韓国、それどころかイラク攻撃当事国のアメリカ、イギリスに比べてさえも、圧倒的に少ないのでしょうか? (p.43)

 「では、どうすればいいのか」と言われるかもしれません。
現状の危険性を訴える議論にたいして、「現状はわかった。では、具体的にどうすればいいのか教えてほしい」という反応が返ってくることはよくありますが、そんなとき、私はいつも一抹の懸念を覚えます。仕事の性格も、生活の場所も、社会的責任の大きさもみなそれぞれ違う人びとに、それぞれが「どうすればいいか」を具体的に指示することは困難だ、というだけではありません。自分が「具体的にどうすればいいか」は、あくまで自分自身が考え、決定すべきことがらです。それさえも他者から指示してもらおうというのは、そこに、国や「お上」の方針に従うことをよしとするのと同型のメンタリティがあるのではないか、と感じられてならないのです。(p.45)

 「茶色の朝」を迎えたくなければ、まず最初に私たちがなすべきこと-それはなにかと問われれば、思考停止をやめることだと私なら答えます。なぜなら、私たち「ふつうの人びと」にとっての最大の問題は、これまで十分に見てきたとおり、社会のなかにファシズムや全体主義につうじる現象が現われたとき、それらに驚きや疑問や違和感を感じながらも、さまざまな理由から、それらをやり過ごしてしまうことにあるからです。
 やり過ごしてしまうとは、驚きや疑問や違和感をみずから封印し、それ以上考えないようにすること、つまりは思考を停止してしまうことにほかなりません。「茶色の朝」を迎えたくなければ、なによりもまずそれをやめること、つまり、自分自身の驚きや疑問や違和感を大事にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、等々を考えつづけることが必要なのです。
 思考停止をやめること、考えつづけること。このことは、じつは、意識を眠らされてでもいないかぎり、仕事や生活や社会的責任の違いを超えて、私たちのだれにとっても可能なことです。そして、勇気をもって発言し、行動することは、考えつづけることのうえにたってのみ可能なのです。(p.46)
 誰かに考えてもらうのではなく、自分で考えること。思考を停止しないこと。怠慢や臆病や自己保身を克服し、他者へ関心をもつこと。そして勇気をもって発言し、行動すること。さもないと「黒い朝」を迎える破目になります。嫌だ。
by sabasaba13 | 2017-09-18 06:28 | | Comments(0)