2017年 09月 21日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 12

 いずれにせよ、こうした流言は誰が生み出したのか。朝鮮人への蔑視感や差別意識、あるいは恐怖感をもっていた民衆から自然発生したという説と、朝鮮人を敵視する官憲が流布したという説があります。今となっては真相を明らかにすることは不可能でしょうが、状況証拠から後者を唱えるのが姜徳相氏です。(①p.47~80) 前述のように、三・一運動や間島・シベリアにおける反日闘争などの激しい独立運動、増大する在日朝鮮人労働者による労働運動の活発化や、日本人労働者との連帯の萌芽などにより、日本の官憲は在日朝鮮人の動きを最大限に警戒・監視していました。例えば、留学生を含むめぼしい者を要視察人とし、甲号視察人には五人、乙号視察人には三人の尾行をつけて日常生活を監視していました。また要視察に該当しない者でも、身辺調査を行ない、人相・特徴・交友関係・日本観などを綿密に記録していました。さらにこうした監視や敵視、独立運動に対する苛烈な弾圧に対して、朝鮮人が反発と憎悪を抱き、非常時には日本人への報復を行なうという予断もあったでしょう。そうした状況において、大震災で発生した火災を見て「朝鮮人の放火」とみなし、パニックの中で「朝鮮人が暴動を起す」という疑心暗鬼に官憲がとらわれた可能性は高い、というのが姜氏の考察です。
 9月1日に流布した流言蜚語の特徴として、発生地が関東一円の広大な地域にわたっていることと、災害(特に火災)が僅少ですみ警察力の回復が速かった地域で流布していることもその証左です。前者については、警察の通信網によって流言が伝えられたようです。例えば、埼玉県入間町では、9月1日午後七時頃、自転車に乗った警察官が町民に対して「爆弾凶器を有する鮮人十一名当町に襲来し内一名捕縛さる、此者は六連発短銃と短刀を携帯す、全町は燈を滅し戸締をせよ」と警告をしています。後日、これが誤報であったことを弁明する際に、入間川警察署は「所沢警察署の命に依りたるもの」「警察及鉄道省の電話が以上同一の言を伝達したるは奇という外なく其根源の何れにあるや詳ならず」と述べています。また警官が流言を流布したという証言も残っています。(③p.24)
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚の者が十三人避難して来ていた。…昨夜上野公園で野宿していたら巡査が来て○○(※朝鮮)人の放火者が徘徊するから注意しろといったそうだ。(寺田寅彦 「震災日記より」9月2日の条)

 九月一日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」と二度まで通知に来た…。(『報知新聞』 1923.10.28夕刊)
 9月1日夜半以来、こうした流言は権力中枢に次々と還流しはじめました。各地の警察から、朝鮮人の放火・投毒・暴行に関する同じような情報が上がってくるにつれ、水野錬太郎(内務大臣)・赤池濃(警視総監)・後藤文夫(警保局長)は、予断し警戒していたことを「事実」と看做してしまったのではないでしょうか。植民地化に反発する朝鮮人がとうとう蜂起を開始した。飢えた日本人の暴動も起こりかねない。しかし既述のように、閣議の反対によって戒厳令は施行できません。さあどうするか。

 なお、9月1日には、横浜で立憲労働党総理山口正憲を主謀者とする集団強盗事件が起きています。彼は避難民を煽動して物資を調達しようと企て、避難民を集めると、避難民を救うために「横浜震災救援団」という団体を結成したいと提唱。避難民たちは、巧みなかれの弁舌に感激し一斉に賛意を表しました。山口は、さらに自ら団長に立候補することを伝え拍手のうちに団長に推挙され、多数の者がその場で入団を申出ました。山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれた者を選び出して決死隊と称させます。かれらは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に横浜市内の類焼をまぬがれた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩き、その強奪行動は、九月一日午後四時頃から同月四日午後二時頃まで十七回にわたって繰り返されました。横浜周辺での「朝鮮人による強盗」という流言の発生に関係するかもしれません。(⑧p.132~7)

 余震と業火の続くなか、恐怖の一日が終わりました。
by sabasaba13 | 2017-09-21 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)