2017年 09月 22日 ( 1 )

近江編(33):修学院離宮(15.3)

 それでは修学院離宮を紹介いたしましょう。「京都観光Navi」の紹介文を引用しますと、1656~59年、後水尾上皇が比叡山麓に造営した広大な山荘で、約54万5000平方メートルの敷地に上・中・下、三つの離宮から構成され、いずれも数寄な趣向の茶亭等が閑雅にめぐらせた池の傍らに立ちます。自然と建物の調和が絶妙です。
 当然、莫大な費用がかかりましたが、これには裏話があります。できたてのほやほやの江戸幕府は、朝廷の権威を利用するために秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させるとともに、禁中並公家諸法度(1615)を制定するなど、その統制に細心の注意を払いました。さらに、幕府の許可なく天皇が高僧に"紫の僧衣"を与えとして、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。以前から幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 余談ですが、沢庵の配流先である春雨庵の記事を以前に掲載しましたので、よろしければご笑覧ください。

 表総門から入り、参観許可証を提示して中へ、参観者休所で待機しますが、桂離宮にくらべて質素な建物でした。さあ出発時間です。参観人数は二十人ほど、前に説明担当の方、後ろに歩みをせかす係の方が配置され、サンドウィッチ状態での見学となります。
c0051620_624455.jpg

by sabasaba13 | 2017-09-22 06:24 | 近畿 | Comments(0)