2017年 09月 25日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 14

 こうした軍隊による朝鮮人虐殺を目撃した福島善太郎氏の証言も紹介しておきます。(④p.47~8)
 「二日の昼下がり私は市川の町へはいる十町余り手前の田圃道を途中で配給された玄米の握り飯で腹をこしらえて歩いていました。遂ぞ見たこともない大型の陸軍飛行機が幾度ともなく炎熱の空を飛んで行きました。鴻ノ台(※国府台)騎兵隊が幾組ともなく避難民の列を引き裂いて砂塵を上げて駆け走ってゆくのでした。
 『朝鮮人を兵隊が叩き殺しているぞ』『暴動を起そうとした片割れなんだ!』『太え野郎だ!畜生!』『うわあっ!』 今迄引きずるように歩いていた避難民の群衆が恐ろしい叫びをあげて勢いよく走りだしました。つい私もつりこまれて走っていました。そして一町近く走ったとき、群衆の頭越しの左側の田圃の中で恐ろしい残虐の事実をはっきり見たのです。粗い絣の単衣を着た者、色の燻んだ菜葉服を着た者達が七人後ろ手に縛りつけられて、しかも数珠つなぎになって早口に叫んでいました…。『ほざくな野郎!』 突然一人の兵隊が銃剣の台尻を振りかぶったと見るや一番端で矢鱈にもがいていた男の上にはっしと打ち降しました。『あっ』 さすがに群衆に声はなかったのです。そして一様に顔をそむけました。やがて恐る恐る視線を向けたときには頭蓋骨はくだかれ鮮血があたり一面に飛び散り、手足をピクピクと動かしていました。『あはははは、ざまあみろ』…『こいつら、みんな叩き殺してしまえ!』『よしきた、畜生!』『やい! 不逞鮮人奴! くたばりやがれ!』
 十人余りの兵隊が一斉に銃剣や台尻を振りかぶりました。あの二日の午後二時前後に、市川へ渡る橋の手前数町のところで、この事実を目撃した人たちが必ずあるにちがいない。
 胸を貫かれて、かすかに空を仰いだだけで息絶えた者、二の腕を殆ど切り落とされんまでに斬られて、泥田の中へ首を突っ込んでもがいていた者、断末魔の深い呼吸を泥といっしょに吸いこんだため、胸を苦しげに大きく波打たせていたもの等々の光景をいま思い出してもぞっとします。…二度目は二日の夕方、菊川橋際で工場の焼跡整理のかえり、素っ裸にされて、電線でぐるぐる巻きにされて、鳶口や日本刀を持ったひとたちにめった殺しにされている二人の朝鮮人をみたのでした」(『民族の棘』 p.25~26)
 旧四ツ木橋付近でも、軍隊による朝鮮人殺戮が行なわれました。(⑨p.76~8) なお2009年9月、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」によって追悼碑が建立されました。詳細は拙ブログの記事をご参照ください。

 証言のいくつかを紹介します。
「四ツ木橋は習志野の騎兵(連隊)でした。習志野の兵隊は馬で来たので早く来ました。なんでも朝鮮人がデマを飛ばしたそうで…。それから朝鮮人殺しが始まりました。兵隊が殺したとき、みんな万歳、万歳をやりましたよ。殺されたところでは草が血でまっ黒くなっていました」 (高田〈仮名〉)

「一個小隊くらい、つまり2、30人くらいいたね。二列に並ばせて、歩兵が背中から、つまり後ろから銃で撃つんだよ。二列横隊だから24人だね。その虐殺は2、3日続いたね。住民はそんなもの手をつけない、まったく関知していない。朝鮮人の死体は河原で焼き捨てちゃったよ。憲兵隊の立ち合いのもとに石油と薪で焼いてしまったんだよ」 (田中〈仮名〉)

「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」 (浅岡重蔵)

「9月5日、18歳の兄といっしょに二人して、本所の焼けあとに行こうと思い、旧四ツ木橋を渡り、西詰めまで来たとき、大勢の人が橋の下を見ているので、私たち二人も下を見たら、朝鮮人
10人以上、そのうち女の人が1名いました。兵隊さんの機関銃で殺されていたのを見て驚いてしまいました」 (篠塚行吉)
 これは…戒厳軍です。被災地を戦争状態とみなし、「敵」である朝鮮人を殺戮してよい、そうした命令が出されたわけです。姜徳相氏曰く「宣戦布告なき戦争」です。いや、前述の三・一独立運動や間島での無差別殺戮を考えれば、韓国併合以来続けてきた「宣戦布告なき戦争」の延長といっていいのかもしれません。(④p.38)
by sabasaba13 | 2017-09-25 08:15 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)