2017年 10月 13日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 23

 輜重兵第一大隊軍曹・鈴木曽男らが「不逞鮮人」を発見したのは9月3日夜のことでした。(①p.130~1)
 十二時頃○ヶ谷石川牧場東北側凹地森林内に鮮人三名居るを知り之を逮捕す…右鮮人の家屋(石川牧場凹地内にある豚小屋側の家宅にして、一般近隣の住民は怪しき家と一様に称す)を捜索してる結果左記物件を押収す。
  左記
 不逞鮮人舎(標札)、同舎発行雑誌(太い鮮人)、宣伝ビラ(日鮮大講演)、雑誌販売名簿一、雑誌(自由の人)、鮮人名簿其他若干。
 同家住人金子ふみ子(栃木県人にして二十四才位)は、「右押収物件と共に警察官に引渡せり」 (『現代史資料』 第6巻)
 そう、いわゆる「朴烈事件」のきっかけとなった逮捕です。この後、朝鮮人虐殺の責任を免れようとした官憲は、「不逞鮮人」というイメージを流布するために、朴烈・金子文子夫妻に対し、この秋挙行予定の皇太子婚儀に際して天皇と皇太子を要撃する計画であったという自白を強要しました。そして1926年3月25日、大審院は大逆罪として両名に死刑を宣告しますが、政府は政治的効果をねらい4月5日、大赦令をもって無期懲役に減刑しました。7月23日金子は獄中で縊死、朴は敗戦まで在獄しました。なおこれにからんで「怪写真事件」も起きましたが、詳細は省きます。
 なお金子文子については、『未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』(日中韓3国共通歴史教材委員会 高文研)に、簡にして要を得た照会文がありましたので、引用します。
金子文子(1903~26)-朝鮮人と連帯し天皇制国家と闘った日本人

 金子文子という人を知っていますか。1923年の関東大震災の際、朝鮮人の朴烈(パクヨル)とともに検束され、皇太子(のちの昭和天皇)を爆弾で殺そうとしたとして「大逆罪」に問われて、死刑判決を受けた女性です。
 文子は横浜で生まれました。家柄を誇る父が「婚外子」(法的な結婚をへないで生まれた子)であった文子の出生届を出さなかったため、正式に小学校に入学できないなどの差別を受けたり、父に捨てられた母の再婚などのため文子の少女時代は不幸でした。9歳の時、朝鮮に住む父方の親戚の養女となりましたが、権威的なその家でひどくいじめられました。三・一独立運動を目撃した時、強者に抵抗する朝鮮の人たちに「他人事とは思えないほど感激した」といいます。
 16歳で養女を解消されると、実父が勝手に結婚を決めたため、その圧力を逃れて東京で苦学しているときに社会主義・無政府主義などに出会いました。そしてこれまでの体験から「一切の権力を否定し、人間は平等であり自分の意思で生きるべきだ」という思想に到達しました。さらに、さまざまな法律や忠君愛国・女の従順などの道徳は「不平等を人為的に作るもので、人々を支配権力に従属させるためのしかけである。その権力の代表が天皇である」と考えました。
 19歳の時、日本帝国主義を倒すことを志す朴烈と同志的な恋愛をして一緒に暮らすようになり、「不逞社」を結成します。朝鮮の独立と天皇制の打倒を志す二人は、爆弾の入手を計画はしますが、実現できないうちに検束されました。
 若い二人は生き延びることよりも、法廷を思想闘争の場にしようと考えて堂々と闘いました。死刑判決後、政府は「恩赦」で無期懲役にしましたが、文子はその書類を破り捨て、3カ月後、獄中で自殺しました。23歳でした。民族や国家を超えて同志として朴烈を愛し、被抑圧者と連帯し、自前の思想をつらぬいた一生でした。(朴烈は1945年に解放されました) (p.84~5)

by sabasaba13 | 2017-10-13 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)