2017年 10月 21日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 26

 そしてこの4日、「猫ニ逐ワレル鼠ノ如ク」「竹槍、鳶口等ヲ以テ野犬撲滅同様」(『政府戒厳令史料』 p.250)といった迫害を受け、さらに検束された朝鮮人を習志野俘虜収容所などに移送・拘留する決定がなされました。朝鮮人を保護することによって、国際的な非難を避け、日本による朝鮮支配への悪影響を防ぐためです。9月4日午後4時、第一師団司令部の戒厳令第三号「朝鮮人は習志野旧捕虜収容所に収容す。詳細は別に指示す」です。さらに同日午後10時、第一師団長・石光真臣は騎兵第二旅団・三好一にこう指示しました。(①p.195~6)
一、東京附近の朝鮮人は、習志野俘虜収容所に収容することに定めらる。
二、各隊は、その警備地域附近の鮮人を適時収集し、国府台兵営に逓送す。
三、貴官は、習志野衛戍地残留部隊を以て、国府台にて鮮人を受領し、之を逓送して廠舎に収容し、之が取締りに任ずべし。
四、鮮人の給養は、主食、日量、米麦二合以内、賄料、日額十五銭以内とし、軍人に準じて取り扱ふべし。その細部に関しては、計理部長をして指示せしむ。(『現代史資料』六巻 p.121)
 習志野の収容所は、騎兵第二旅団指揮下の騎兵第十三、十四、十五、十六連隊の東にある高津廠舎に開設されましたが、そこはかつて日露戦争の時のロシア人捕虜収容所、第一次大戦の時のドイツ人捕虜収容所となったところです。なお収容所としてはこの千葉県習志野陸軍廠舎(旧捕虜収容所)の他に、那須金丸ヶ原練兵場内、目黒競馬場、横浜港内碇泊の華山丸にもありましたが、いずれも一般市民から隔離した場所でした。(①p.182) こうして朝鮮人の各収容所への移送が、翌9月5日より始まりますが、この措置には、「保護」のほかに「選別→殺害」というもう一つの目的がありました。特に習志野の収容所がその舞台となったようです。たとえば、警視庁管内63署は留置場・演武場などに拘束していた朝鮮人の多くを目黒競馬場の収容所に送りましたが、そのなかで世田ヶ谷署は120名の拘束者を目黒と習志野にわけ、「注意人物は軍隊に托して習志野に移し」ました。(①p.201~2) また戒厳司令官・福田雅太郎は習志野送りを「玉石混淆共に砕ることなからしむるため」と述べ、橘清は「保護すべきは保護し拘束すべきは拘束し、事毎に機宜の処置」であると述べています。(①p.197~9)
 というわけで、おそらく、独立運動・労働運動・社会主義運動に深く関わっている朝鮮人、あるいは軍・警察が犯した"不都合な真実"を知り過ぎた朝鮮人は、習志野の収容所に送られる。また収容されている人びとに対する捜査・尋問を行なって前記のような「不逞」(日本の国家権力にとって目障りな)朝鮮人をあぶり出す。そして「玉」と判断したら保護し、「石」と判断したら…

 もう一つ私たちが記憶に留めなくてはならないのは、官憲が、収容した朝鮮人を強制使役したことです。具体的には、焼跡整理、死体処理などです。その目的は三つありました。第一に「多数の鮮人は決して不逞ならずして献身的に世務公益に努力する者である事実を示して、国民の反感を緩和すること。二は上野、両国、品川、新宿は帝都の関門、交通運輸の要衝で殊に目下の如き鉄道不通の際、物資を市外より得んとする際に於ては最其通路の障害物を除去し、交通運輸の安全を期せねばならぬ、然るに路面破壊されたのみならず、廃物山積して歩行すら容易でない、故に速かに障害物を除去するは非常の功徳であったからである。三は鮮人をして義侠的又は社会奉仕的に労働に従事せしむれば一般労銀の低下を促す原因となる」と考えたからです。とくに第三の理由は注目すべきですね。官憲と財界の関係が、不即不離の利益共同体であったことがよくわかります。
 中でも苛酷だったのが、死体処理作業でした。集団焼死のあった本所の被服廠跡などは足の踏み場もないほどの死体が残暑にさらされ、蛆、蠅の大群がむらがっていました。腐臭のたちこめるなかで荼毘に付す作業は難事であり、「気味の悪い仕事」として作業員の応募がなかったそうです。「『日給五円日払イニシテ三食弁当ヲ給ス』破格の条件で募集した88名の作業員が半日の作業でわずか4名しか残らなかった」ほどで、その臭気で卒倒する人もいました。その「一般内地人の嫌忌する労働」に朝鮮人が強制的に動員されたのでした。(①p.188~90)
by sabasaba13 | 2017-10-21 05:51 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)