2017年 10月 30日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 28

 また埼玉県の各地でも大虐殺が起きています。まずは熊谷です。内務省からの指示に加えて、東京から流入する避難民を通じて、朝鮮人暴動の流言は広まっていったようです。埼玉県は、避難してくる朝鮮人を川口で検束し、蕨に移送。その北への護送を各町村の自警団にゆだねました。残暑の厳しいなか、家族連れも含む朝鮮人たちは、徒歩で休憩もなく延々と歩かされ、途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害されています。彼らが熊谷に着いたのは4日の夕方、蕨から50キロを30時間かけて歩き続けた末のことでしたが、熊谷町中心部は、数千とも思われる人々に埋め尽くされていました。彼らは東京の仇を打とうと殺気立った烏合の衆と化しています。「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない。狂気に支配されたとはいえ、血に飢えた者が獲物を捜し求め、狩りを楽しみ、みつけたら殺戮を楽しむ、というのが実相である」(⑤p.165)。逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦なく暴行を受けた。「その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。…こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(⑤p.167)。竹やりを背中に何本も刺された朝鮮人も目撃されています。彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内、ここで残りのすべての朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害されました。町のあちこちに転がった遺体は、暑い中、すぐに激しい腐臭を発するようになりました。野犬が食いあさる、放置されたままで誰も近づかなかったこれらの遺体を黙々と荷車に積み込み、野焼きしたのは、一人の火葬人夫と、町の助役である新井良作だけでした。その後、熊谷市の初代市長となった新井は、1938年に朝鮮人犠牲者の供養塔を建立しました。

 そして埼玉県の本庄でも虐殺が起こりました。9月4日午後8時過ぎ、埼玉県警察部が。群馬県に移送させようとした朝鮮人十数名を乗せた貨物自動車が、群馬県多野郡新町の自警団にさえぎられて群馬県内に入ることが出来ず、本庄警察署に避難してきました。これら三台の貨物自動車に朝鮮人多数が乗っているのを目撃した住民たちの中から、「朝鮮人の来襲だ」と叫ぶ者がいて、それはたちまち人の口から口に伝わります。自警団では、団員を鐘楼に駈け上らせ警鐘を乱打させました。夜の町に鐘の音が響き、それを耳にした他の鐘楼でも鐘がたたかれ、本庄町とその周辺は騒然となりました。そして、女子供はかたく戸をしめて家に閉じこもり、男たちは提灯を手に日本刀、シャベル、鳶口、鉄棒をもって本庄警察署附近に集まってきたのです。群衆は急激に増加してその数は三千人にも達し、警察署の周囲は、提灯の灯でうずまりました。かれらは口々に、「朝鮮人を出せ」と、警察署員に向かって連呼し、狼狽する署員の制止をふりきって署内に乱入しました。そして、貨物自動車で移送途中の朝鮮人が収容されている演武場その他に殺到しました。群衆は、翌5日朝までに建物を鳶口等で破壊し、朝鮮人33名をとらえると、熊手、日本刀、鉈、鳶口、長槍等で殺害しました。警察の非力を知った群衆は、自警団員を中心に一層凶暴化しました。すでに本庄町とその周辺は無法地帯になっていて、煽動者は、バンザイ、バンザイと叫び、凶器を手に、「やっちまえ、やっちまえ」と、町の所々に集る群衆に声をかけて歩きました。
 翌6日午後、本庄警察署長・村磯重蔵が帰署してきたことを知った煽動者たちは、日頃から署長に反感をいだいていたので、群衆に、「署長を殺してしまえ」と、説いて歩きました。群衆もこれに応じて警察署周辺に集り出し、夜に入った頃にはその数も数千名にふくれ上りました。煽動者たちは、署長を殺し警察に放火せよと叫び、遂に午後八時頃署内に喚声をあげてなだれこみましだ。署長はその間に逃れましたが、煽動者たちは、日本刀、シャベルをふりかざして署員をおどし、署内を荒し廻ったのです。警察では軍隊の派遣を乞い、それによってようやく鎮圧することが出来ました。(⑧p.176~8) その慰霊碑が城立寺長峰墓地に建立されています。
 なぜ人びとが村磯署長に反感を抱いていたのか、『大正大震災』(尾原宏之 白水社)を読んでわかりました。村磯署長は、中山道の宿場町・本庄で栄えた女郎屋を厳しく取り締まり、また町の青年が楽しみにしていた神輿担ぎを威圧的に統制し、規則を破る者を拘引し、さらにしつこく監視したのですね。以下、本書より引用します。
 村磯が祭りに手をつけたのは象徴的な意味を持つ。神島二郎によれば、自然村における生産労働の淋しい日々の中にちりばめられる祭祀は、人々に「季節的にめぐりくる豊富・解放・平安のエクスタシー」を与え、また通過儀礼を通して「隠居や隠棲、「あの世」への帰入、生まれかわり、そしてその連続としての子や孫の生命力にたいするあこがれや期待」を与えてきた。そしてそれは、現実の苦痛や圧迫や欠乏に耐え、安楽や自由や豊富の獲得を諦めさせる力となった。祭りは、自然村の生産との関連を断ち切られるようになっても、なお「一時的な融合と情動の昂揚」をもたらす。都市化により祭りの数は整理されていくが、逆に少ない機会は大きく盛り上げられる。人々は華やかな祭りへと誘導され、そこで抑圧感が発散される。本庄署襲撃は、「ハレ」の場を禁圧された住民の情動が噴出したものでもあった。(⑫p.127)
 民衆による朝鮮人虐殺の真因を理解するためには、共同体への抑圧や崩壊、それに反発する住民の情動にも注意を払うべきかもしれません。

 もうひとつが、埼玉県上里町神保原で起きた虐殺です。本庄と同様、群馬県に移送される朝鮮人を乗せたトラックが神流川のあたりで群衆に襲撃され、42人の朝鮮人が殺害されました。1952年にその慰霊碑が安盛寺に建立されています。
by sabasaba13 | 2017-10-30 07:05 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)