2017年 12月 02日 ( 1 )

関東大震災と虐殺 43

 この虐殺について、同時代人はどう見てどう考えたのでしょう。管見の限りですが、いくつか紹介したいと思います。

 まず内村鑑三です。9月22日の日記に、「民に平安を与ふる為の軍隊であると思へば、敬せざるべからず、愛せざるべからず」とあります。戒厳令と軍隊出動に感謝するとともに、自身も自警団に入って夜警を勤めています。(④p.113)

 田山花袋は、朝鮮人が追われて、花袋家の縁の下に逃げ込んだのを「引きずり出してなぐってやった」と語ったのを『中央公論』の編集者・木佐木勝氏が日記に記録しています。(④p.117)

 微妙なのが宮沢賢治です。当時賢治は、日蓮宗の立場から様々な改革を唱える田中智学に傾倒し、智学が主宰する国柱会の会員でした。ちなみに石原莞爾も会員でしたね。田中智学は、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を発行していますが、賢治はそれを町の辻々に張りまわっています。彼自身が朝鮮人への排撃を主張した文章は発見されていませんが、不可解なことがあります。筑摩書房の全集(1995年)書簡の部で、1922(大正11)年から丸三年間の分が、そっくり抜けているそうです。この書簡の中に、謎を解く鍵があるのかもしれません。(④p.120~2)

 作家の志賀直哉は、「震災見舞」の中でこう書いています。
 軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
 高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
 ………………………
 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
 「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
 ………………………
 鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(※宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
 反骨のジャーナリスト・宮武外骨が書いた「日鮮不融和の結果」です。(『震災画報』より ちくま学芸文庫)
 今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
 要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
 根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
 北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。

by sabasaba13 | 2017-12-02 06:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)