2017年 12月 03日 ( 1 )

近江編(52):彦根(15.3)

 天守の外へ出ると、着ぐるみの「ひこにゃん」が現われ、遠足できていた子どもたちに囲まれていました。それでは彦根駅へと戻りましょう。自転車にまたがり少し走ると、彦根城を頂いたご当地ポストを発見。
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 その先には大老・井伊直弼の歌碑がありました。
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 後学のために解説を転記します。
井伊大老(直弼)歌碑

あふみ(近江)の海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

 安政7年(1860年)正月、直弼は、正装姿の自分の画像を御用絵師狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺に納めたと伝えられる。
 この歌は、琵琶湖の波が磯に打ち寄せるように、世のために幾度となく心を砕いてきたと、幕府大老として国政に力を尽くしてきた心境をあらわしている。
直弼は、この二ヶ月後の3月3日、江戸城桜田門外で凶刃に倒れた。
 井伊直弼に関しては、毀誉褒貶、いろいろな評価があります。しかしここは、マルク・ブロックの"ロベスピエールをたたえる人も、にくむ人も、後生だからお願いだ。ロベスピエールとはなにものであったのか、それだけを言ってくれたまえ"という言を借りて、彼が何者であったのかを確認したいと思います。幕末維新研究の泰斗、田中彰は『日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社)の中で、以下のように述べています。
 1857年(安政4)6月の老中阿部正弘の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰(江戸城内黒書院の溜間で、登城してここに詰める大名を溜間詰、略して溜詰ともいう)の家門・譜代大名がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。これと対立したのが1853年(嘉永6)のペリー来航以来、攘夷主義の立場をとっていた徳川斉昭以下松平慶永、島津斉彬らに代表される大廊下詰家門大名、大広間詰外様大名の一派であった。
 当時、廃人同様といわれた第十三代将軍家定の継嗣問題をめぐってもこの二派は対立し、外交問題と内政問題とが結びつくことによって、この二派の対立はいっそう先鋭化した。
 つまり幕閣の独裁をおさえ、諸雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は、一橋慶喜(斉昭の第七子)を将軍のあとつぎにしようとし(一橋派)、井伊ら幕閣独裁をとろうとした家門・譜代大名の一派は、紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作をすすめ、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏したのである。井伊が大老に就任し、独断専行、慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねて迫る初代駐日総領事タウンゼント・ハリスに対しては、勅許をえないままに日米通商条約を調印した(1858年、安政5年6月)。
 継嗣問題で敗れた一橋派は、井伊の違勅調印を理由に、いっせいに井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」には「尊王」を、「開国」には「攘夷」を対置した。「攘夷」は反幕閣・反井伊のスローガンになったのである。
 斉昭・慶喜親子や徳川慶恕、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学らの志士たちは京都に参集して反幕的気運を盛り上げた。孝明天皇も激怒して譲位の意向を示し、1858年(安政5)8月には、条約調印に不満を示す勅諚(戊午の密勅)を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿と下級攘夷派公卿とが対立し、後者は「列参」(集団行動)という示威行動をとるにいたった。
 この事態に幕府の危機をみた井伊は徹底的な弾圧策をとったのである。井伊の論理は、政治は朝廷から幕府に委任されているのであり、外圧の危機に「臨機の権道」をとるのは当然だとし、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うというものだった。それだけに反対陣営に対しては、大老職に政治生命を賭けて対応したのである。だから、その政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現たる強圧的な弾圧策として断行された。
 しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的な伝統の維持として貫かれようとする限り、客観的にはかえって矛盾を深化・拡大させる結果となった。(p.114~7)
 外圧という非常時的な危機と「攘夷」の不可能性へのリアルな認識、それを回避して国家を守るためにはあらゆる手段を取るという情熱、その結果に対する真摯な責任感。井伊直弼が一流の政治家であったことは間違いないと思います。ただ彼が守ろうとしたものは、譜代大名による権力独占の現状維持(ステータス・クオ)でした。よってその権力独占を打破しようとする反対勢力との間に、権力の配分をめぐるきわめて政治的な闘争が発生しました。ただこの両勢力には、権力を奪取したうえで何を目指すのかという視点が決定的に欠落していたと思います。たとえば民衆の安寧をも含んだ日本の独立維持という、より高次の目標がなかったのではないか。幕府の権力と暴力装置を過信した井伊は、反対勢力に凄惨な弾圧を加え、最後はその報復として凶刃に倒れます。
 己の力への過信、反対勢力の力量への過小評価、そして権力を使って何を実現するのかという目標の不在、これらが井伊の失敗の原因ではないでしょうか。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』(岩波文庫)の中でこう述べています。
 情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力-これは政治家の決定的な心理的資質である-が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いてみることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。(p.78)
 "状況に対する距離感の喪失"、他山の石としましょう。
by sabasaba13 | 2017-12-03 08:42 | 近畿 | Comments(0)